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「日本選手権」 のテレビ露出情報

新日鉄釜石は日本選手権7連覇を達成した。金野年明は元新日鉄釜石の選手で、地元の工業高出身で40年以上製鉄マンとして勤務していた。1959年に岩手県釜石市の製鉄所で誕生した新日鉄釜石。冬場は気温がマイナス10度になる厳しい環境の中で選手たちは朝8時から夕方5時まで働き、ラグビーに打ち込んでいた。松尾が入部する前はベスト4の壁を越えられずにいた。ライバルの名門チームが大学の有名選手を引きぬくなかで、釜石に入ったのは経験の浅い地元の高校生で大卒の選手を入れるのは数年に1人だった。その選手だった森さんは明治大学の先輩で日本代表のキャプテン。フォワードのパワーには定評があったががむしゃらに力で押すだけのチームだった。1976年に松尾が入部したが、すると釜石のラグビーは一変。森さんはそのキックは高くボールが長らく落ちてこなかったと語り、これを武器に相手陣地に攻め込みトライを奪う形が生まれた。松尾が入部して1年が経過し日本選手権で初優勝した。小さな製鉄の町は歓喜に揺れた。
1978年には松尾の怪我でチームは優勝を逃した。しかし次の年には松尾を中心に躍動し優勝した。1982年には4連覇を達成。この年に松尾は選手兼任で監督に就任した。しかしチームは壁に突き当たっていた。チームを支えてきた選手が引退していき、監督としての手腕が問われる中で松尾が口にするようになったのは頭を使って考えろ。松尾がこだわったのは一人一人が考えて動くこと。当時松尾のチームメートだった坂下さんは8年間松尾とコンビを組んだV 7ナンバー。釜石シーウェイブスの監督を務める。自主性を求める松尾の指導で、選手たちは成長をし始めた。松尾が目指したのは15人で繋ぐラグビー。その実現のためにチームをあげて取り組んだのはタッチフット。タッチフットは相手にタッチされないようにボールを回してパスやフットワークを鍛える練習。大八木さんは元々同志社大学のラグビー部だったが新日鉄釜石はそれまでの日本のラグビーを変えたチームだと答えた。
監督就任から3年で繋ぐラグビーの象徴となるプレーに社会人大会の決勝でスクラムからでたボールが13人で繋いで90mをかけあがってトライとなった。日本ラグビー史上最も美しいトライと言われた。そして迎えたのは7連覇をかけた日本選手権。相手は同志社大学。痛めた左足首が悪化し試合の8日前に入院した。激痛で歩くこともままならず絶対安静の状態に。誰もが出場はできないと思っていたが、松尾は何事もなかったかのように姿を表した。松尾はこの試合を最後に引退を決めていたという。現役最後の試合に麻酔を打って出場を決意した。日本選手権の試合では同志社大学相手に新日鉄釜石は先制トライを許した。本調子ではないことが明白で、同志社大学がトライを決め続けていた。防戦一方だったが、松尾は味方二人を飛び越す飛ばしパスという頭脳プレーで相手を翻弄し一点差に詰め寄った。流れを取り戻した釜石は後半4分でついに逆転となった。松尾はみごとなステップからパスを繰り出し同志社大学を突き放し優勝した。

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