2023年9月9日放送 1:41 - 2:30 NHK総合

レジェンドの目撃者
〜ミスター・ラグビー 松尾雄治〜

出演者
土屋礼央 副島萌生 松尾雄治 
(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

レジェンドの目撃者
コーナーオープニング

今回は松尾雄治を特集する。

キーワード
新日鉄釜石ラグビー部
ミスター・ラグビー 松尾雄治

松尾雄治は明治大学時代には早稲田をやぶり、大学選手権優勝に導いた。華麗なステップで変幻自在のパスでチームの司令塔として戦術を生み出し革命を生み出しミスターラグビーと呼ばれた。日本を熱狂の渦に巻き込んだラグビーワールドカップ2019。日本は並み居る強豪を撃破し全勝でグループリーグを突破しベスト8を進出を果たした。大畑大介は元日本代表の国際試合トライ数69の世界記録保持者。松尾の影響でラグビーを始めたという。松尾は3歳のころに元ラガーマンの父からラグビーの英才教育をうけて小学5年生になるとラグビーに取り組んだ。目黒高校のラグビー部の主将をしていた金田さん。入部当時の松尾をラグビーの知識はあったがだめな選手でも良い選手でもなかったという。目黒高校は松尾が入部した時に全国優勝を果たしたという。しかし過酷な練習の中で松尾には優れた能力にボールをつなぐ才能が開花。スクラムハーフというポジションで頭角を表していく。スクラムハーフはフォワードからバックスへパスを出すがチームのつなぎ役でラグビーの豊富な知識をいかせるポジションだった。体力不足を克服しチームの絶対的な存在になった。

キーワード
ラグビーワールドカップ2019ラグビーワールドカップ2023明治大学東京都立目黒高等学校

松尾は高校三年の時は全国高校ラグビーの決勝では準優勝に終わった。高校卒業後に松尾が進学したのは明治大学。津山武雄さんは明治大学で松尾と同期。スクラムハーフとして九州電力で活躍した。当時の松尾については同じポジションだったが一ヶ月も経過しないうちにその力の差は歴然で郡を抜いていた選手だったという。ゲームが作れる万能なプレイヤーで、1年でレギュラーになり大学ラグビー界の注目を浴びたという。誰も真似できない武器にはステップ。相手をいとも簡単に抜き去り華麗なステップを踏む。後に松尾の代名詞ともなるこの技は松尾ならではのものだという。何人もの相手を一気に抜き去る松尾のステップ。大畑はそのステップの秘訣に視野の広さと答え、どこにどういった選手を引き付けるのか、空いたスペースに対して切り返すことができる脚力の強さがありアクセルとブレーキの能力の高さにある。パスをうけた松尾は一瞬左足に重心をうつし、相手が動きにつられた隙をすかさずに空いたスペースに一気に走り込む。視野の広さ、スピードのコントロール、判断力で唯一無二のステップに。大学三年には日本代表に初選出された。

キーワード
九州電力キューデンヴォルテクス明治大学東京都立目黒高等学校第51回全国高等学校ラグビーフットボール大会

しかしある日監督にスタンドオフへ突如ポジションを変更されたという松尾。スクラムハーフより一列後ろでパスを受ける。スクラムハーフで日本代表に上り詰めながらも突然のポジション変更だった。阿刀さんは明治大学で松尾と同期だったが松尾の葛藤を目撃していた。本人はスクラムハーフとしてやっていきたいというのが見えたが、そのやる気の無さで叱られていたという。監督の北島忠治は1929年から67年間明治大学ラグビー部を率いた名将。大学選手権で優勝すること12回。重戦車明治を作り上げた。監督の狙いに阿刀さんは松尾はゲームメークがうまく、スタンドオフのほうが全体が見えてゲームのコントロールがしやすいという。しかし松尾は腐っていたが父から一通の手紙がきて、チームが優勝することが大切で、ポジションはお前のためにあるのではないと伝えた。目が覚めた松尾は新しいポジションで走り出した。阿藤さんは松尾はスタンドオフになりよりいきいきしていたと答え、ゲームの司令塔になったという。このことで阿刀さんは松尾は明治大学のラグビーの知識をあげてくれたと答えた。明治のラグビーは「前へ」だがボールを持って少しでも前にいく力のラグビーだった。しかし松尾の影響で一手二手先を見越したラグビーになったという。さらに当時フォワードとバックスは分業制だったが全員ラグビーへと進化させた。

キーワード
九州電力キューデンヴォルテクス北島忠治明治大学神戸製鉄所

1976年の大学選手権の決勝で早稲田大学と試合をすることに。星野さんは早稲田大学のラグビー選手で当時、松尾と試合の中で対峙した。明治を圧倒したライバルの早稲田だが大学選手権3連覇は当然だと思っていたという。しかし、明治は司令塔の松尾中心に全員で突き進むラグビーを行った。宿敵早稲田を下し明治大学が優勝した。

キーワード
平尾誠二早稲田大学明治大学第13回全国大学ラグビーフットボール選手権大会
スタジオトーク

松尾は父の影響でラグビーを始めたという。さらに父は自分たちの子供は勉強ができないので運動で生きていくしかないと言い出し、ラグビーの英才教育が始まったという。また実際にスタジオでパスのやり方を解説し、松尾は父の手紙でポジションの変更をしたと語った。またラグビーではいかに16人目をつくりトライをさせるかが鍵だと語り、監督の北島忠治については正々堂々と汚いことはしない人で勝っても負けても正々堂々であれば怒られなかったという。

キーワード
北島忠治明治大学
ミスター・ラグビー 松尾雄治

新日鉄釜石は日本選手権7連覇を達成した。金野年明は元新日鉄釜石の選手で、地元の工業高出身で40年以上製鉄マンとして勤務していた。1959年に岩手県釜石市の製鉄所で誕生した新日鉄釜石。冬場は気温がマイナス10度になる厳しい環境の中で選手たちは朝8時から夕方5時まで働き、ラグビーに打ち込んでいた。松尾が入部する前はベスト4の壁を越えられずにいた。ライバルの名門チームが大学の有名選手を引きぬくなかで、釜石に入ったのは経験の浅い地元の高校生で大卒の選手を入れるのは数年に1人だった。その選手だった森さんは明治大学の先輩で日本代表のキャプテン。フォワードのパワーには定評があったががむしゃらに力で押すだけのチームだった。1976年に松尾が入部したが、すると釜石のラグビーは一変。森さんはそのキックは高くボールが長らく落ちてこなかったと語り、これを武器に相手陣地に攻め込みトライを奪う形が生まれた。松尾が入部して1年が経過し日本選手権で初優勝した。小さな製鉄の町は歓喜に揺れた。

キーワード
新日鉄釜石ラグビー部釜石市(岩手)

1978年には松尾の怪我でチームは優勝を逃した。しかし次の年には松尾を中心に躍動し優勝した。1982年には4連覇を達成。この年に松尾は選手兼任で監督に就任した。しかしチームは壁に突き当たっていた。チームを支えてきた選手が引退していき、監督としての手腕が問われる中で松尾が口にするようになったのは頭を使って考えろ。松尾がこだわったのは一人一人が考えて動くこと。当時松尾のチームメートだった坂下さんは8年間松尾とコンビを組んだV 7ナンバー。釜石シーウェイブスの監督を務める。自主性を求める松尾の指導で、選手たちは成長をし始めた。松尾が目指したのは15人で繋ぐラグビー。その実現のためにチームをあげて取り組んだのはタッチフット。タッチフットは相手にタッチされないようにボールを回してパスやフットワークを鍛える練習。大八木さんは元々同志社大学のラグビー部だったが新日鉄釜石はそれまでの日本のラグビーを変えたチームだと答えた。

キーワード
同志社大学新日鉄釜石ラグビー部第16回日本ラグビーフットボール選手権大会第17回日本ラグビーフットボール選手権大会第18回日本ラグビーフットボール選手権大会第19回日本ラグビーフットボール選手権大会釜石シーウェイブス釜石市(岩手)

監督就任から3年で繋ぐラグビーの象徴となるプレーに社会人大会の決勝でスクラムからでたボールが13人で繋いで90mをかけあがってトライとなった。日本ラグビー史上最も美しいトライと言われた。そして迎えたのは7連覇をかけた日本選手権。相手は同志社大学。痛めた左足首が悪化し試合の8日前に入院した。激痛で歩くこともままならず絶対安静の状態に。誰もが出場はできないと思っていたが、松尾は何事もなかったかのように姿を表した。松尾はこの試合を最後に引退を決めていたという。現役最後の試合に麻酔を打って出場を決意した。日本選手権の試合では同志社大学相手に新日鉄釜石は先制トライを許した。本調子ではないことが明白で、同志社大学がトライを決め続けていた。防戦一方だったが、松尾は味方二人を飛び越す飛ばしパスという頭脳プレーで相手を翻弄し一点差に詰め寄った。流れを取り戻した釜石は後半4分でついに逆転となった。松尾はみごとなステップからパスを繰り出し同志社大学を突き放し優勝した。

キーワード
同志社大学平尾誠二新日鉄釜石ラグビー部神戸製鉄所第22回日本ラグビーフットボール選手権大会第38回全国社会人ラグビーフットボール大会
スタジオトーク

新日鉄釜石について松尾は年に一度釜石に遠征して練習していたがラグビーしかない雰囲気で自分の人生そのものという町だったという。所属1年目で優勝したというが、町は優勝ににぎやかになったという。チームについてはバックスにはうまい選手がいたというが、一番感じたのは地方の人は純粋だが、対外試合は何試合しか無く自身が持てないという。東京よりもチームの実力が上なのにそういっても自信がなさそうだったと答えた。しかし彼らが自信を持つとチームもどんどん強くなっていったという。また監督になるという際に松尾は他のチームはそのチームを倒そうとして研究してくるが、こちらはもっと研究する必要があるという。まずはラグビーのジャージのエンブレムを変更し、会社のマークがついていたが、はまゆりという地元の花をあしらい、釜石のラグビーチームになるという意味でこのデザインになったという。またこのはなは断崖絶起に咲いて雨風に負けない枯れることのない強い花であり、イメージにぴったりだったと答えた。またその練習について語り、ただ練習をするのではなく、自分が強くうまくなるために自分自身に気が付いていく必要があると答えた。また足をかばって優勝した時には皆が頑張れば自分以上の力が出るはずだと考えという。またこれからの日本ラグビーに期待することには、日本のチームはボールを沢山展開しパスの数が多いチームになり勝利に繋がったら素晴らしいと答えた。

キーワード
新日鉄釜石ラグビー部

© 2009-2024 WireAction, Inc. All Rights Reserved.