長岡京発見の父と呼ばれる中山修一はどのように長岡京を発見したのか。目をつけたのが地名。長岡京から都が移ったあと、荒れた内裏を思わせる地名や馬を飼育する施設を思わせる地名などを手掛かりに調査。そして昭和30年に宮殿の門跡を発見され、長岡京の発掘調査がスタート。現在まで2500回を超える発掘調査を実施。長岡京が平城京に匹敵する本格的な都であることが判明した。
長岡京は平城京が直面した水の問題を解決するため、計画的に造られた都だった。長岡京には小畑川など都を斜めに横切るようにいくつかの川が流れていた。平城京を流れる川より水量が多く、排せつ物をスムーズに流すことができたと考えられる。南東に流れる大きな桂川が大阪湾へ繋がり、物資の運搬も円滑に行えるようになった。しかし、恵みもたらす川は氾濫を起こす暴れ川でもあった。桓武天皇の時代にも大きな水害の記録が残っている。水の豊かな川と水運の良さを求めて行った長岡京遷都だったが、都を手放さざるを得なくなった。
長岡京は平城京が直面した水の問題を解決するため、計画的に造られた都だった。長岡京には小畑川など都を斜めに横切るようにいくつかの川が流れていた。平城京を流れる川より水量が多く、排せつ物をスムーズに流すことができたと考えられる。南東に流れる大きな桂川が大阪湾へ繋がり、物資の運搬も円滑に行えるようになった。しかし、恵みもたらす川は氾濫を起こす暴れ川でもあった。桓武天皇の時代にも大きな水害の記録が残っている。水の豊かな川と水運の良さを求めて行った長岡京遷都だったが、都を手放さざるを得なくなった。
