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「習仲勲」 のテレビ露出情報

19世紀末期、アメリカのゴールドラッシュは太平洋の向こう側から36万人の中国人を呼び寄せた。奴隷制度が廃止されたばかりのアメリカで中国人たちは大陸横断鉄道の敷設といった重労働に勤しんだが、職を奪われることを危惧する白人たちからの排斥運動に晒される。そうした中で生まれたのが、アメリカ初の中国系スター、アンナ・メイ・ウォン。ロサンゼルスの中国系移民三世として育った彼女は16歳で銀幕デビューを果たし、未だ有色人種差別の根強かったハリウッドで数多くの話題作に出演する。しかし、彼女に与えられた役柄は娼婦やギャングの娘といったアメリカ人の偏見を反映したような悪役ばかりだった。
広大な領土と人口を擁し、4000年にわたる王朝支配の下で19世紀中頃まで栄華を極めていた中国では、人々が「中華王朝こそが世界の中心である」という”中華思想”を長きに渡り抱いてきた。しかし、1840年のアヘン戦争でイギリスに敗北して以降、中国は列強の半植民地状態にまで没落。共同租界となった上海では中国人労働者が酷使され、街中には「発展の遅れた中国を助けるのは神から与えられた使命である」とする思想、”マニフェスト・デスティニー”の下でアメリカが病院や学校を設立。1911年に設立された「清華学堂」、後の清華大学もそうして設立された学校の一つだったが、この学校には民主主義を植え付けることで親米派人材を育成するという裏の目的もあった。
1935年、清華大学の奨学金プログラムに選ばれた1人の若者、銭学森がアメリカの大地を踏む。マサチューセッツ工科大学とカリフォルニア工科大学で航空工学を学び、セオドア・フォン・カルマンに師事した銭は当時最先端の技術であったロケットの研究に没頭した。
銭がロケットの研究に打ち込んでいた頃、母国は日本との戦火に晒されていた。日本に勝利するためアメリカの支援を得ようと考えた蒋介石は、米国留学の経験を持つ妻の宋美齢をスポークスマンとしてアメリカとの融和外交を展開。宋美齢は中国の至宝・パンダを米国に贈り、アメリカ人の間で中国への友好ムードを醸成することに成功。このパンダ外交と真珠湾攻撃をきっかけとして、アメリカは中国へ巨額の軍事援助を行うことになる。
師であるフォン・カルマンの説得を受け、日中戦争後もアメリカに留まり研究を続けていた銭学森は、1945年にある依頼を受ける。それは、世界最先端だったドイツのV2ロケット技術をアメリカに移転するというもので、銭は米英の科学者からなる諮問団のメンバーとしてドイツに渡る。銭はここでナチスのロケット科学者、ヴェルナー・フォン・ブラウンと対面。銭はナチスの一員であったフォン・ブラウンを嫌悪していたが、その技術力は認めざるを得なかった。フォン・ブラウンの技術を分析した銭は、超音速ミサイルやロケット推進技術の新たなアイデアを次々に発表。これにより一気に名声を高めた銭は、設立されたばかりのジェット推進研究所で科学主任となった。
第二次世界大戦が集結した4年後、米中の友好関係を一変させる出来事が中国で起こる。1949年、中華人民共和国の成立である。翌年の朝鮮戦争ではアメリカを主力とする国連軍と中国の膨大な義勇軍が戦火を交え、アメリカ国内では共産主義に対する恐怖が一気に高まった。共産主義の脅威を目にしたアメリカ人は赤狩りを行い、その矛先は中国人の銭学森にも向けられた。突如逮捕された銭は2週間の取り調べを受けた後に開放されたが、その後もFBIによる監視と自宅に軟禁される日々を過ごした。この事実を絶好の好機と捉えた中国はアメリカ人捕虜と銭学森の交換をアメリカに持ちかけ、この交渉に乗ったアメリカは銭学森を国外追放することを決定。銭は多くの友人や研究仲間に見送られ、「20年後にまた会おう」と言い残してアメリカの地を後にした。
建国したばかりの母国に戻った銭学森は、国家を挙げた歓待で出迎えられる。核の力を背景にした冷戦が展開されていた当時、中国にとって核ミサイルの開発は何よりも優先すべき事項だったのである。核弾頭ミサイルと人工衛星の開発を命じられた銭は、自ら学校を設立しアメリカ仕込みの科学技術を母国の若者たちに叩き込んだ。こうして、中国は1966年に初めて核弾頭ミサイルの実験に成功。1970年には中国初の人工衛星打ち上げにも成功し、銭は中国の英雄となる。
銭のロケットが宇宙へと旅立った頃、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていた。「造反有理」のスローガンの下、紅衛兵と名乗る若者たちは旧来の文化を破壊し、「反革命分子」とされた人々を暴行し殺害する。母国に多大な貢献を果たしたはずの銭学森もその暴虐から逃れることはできず、些細な言動を糾弾されてロケット開発の職を追われてしまう。銭学森のような英雄も逃れることができなかった文化大革命の暴力と糾弾は、北京に暮らしていた当時13歳の少年にまで及んだ。政府の要職に就いていた習仲勲の息子・習近平である。失脚した父の罪を糾弾され、4回の投獄と度重なる拷問を受けた習近平は都市部の若者を農村部に移住させる「下放」の対象となり、延安の農村へと送り込まれる。ここでも過酷な労働を経験することになった習近平だが、1974年には共産党に入党し、翌年には模範的な農民として清華大学へと推薦入学。科学を学ぶ学生となった。
習近平の大学進学と同じ頃、米中関係は大きな転換点を迎えていた。中ソ対立が深まる中でアメリカは冷戦を有利に進めるべく中国との接近を図り、1972年にはニクソン大統領の訪中が実現する。この会談でアメリカは「台湾は中国の一部という主張を認識している」とする共同声明を発表した。その後も融和外交は継続し、1979年には米中の国交が正常化。時の中国最高指導者となっていたトウ小平は停滞していた中国経済を立て直すために改革開放路線を打ち出し、西側企業に門戸を開いた。莫大な人口を抱える中国は西側企業にとって格好の市場となり、多くの企業が進出。両国の友好ムードが高まる中、68歳になっていた銭学森にもカリフォルニア工科大学から招待状が届いたが、銭は「米政府の正式な謝罪がなされない限りは渡米しない」と応じなかった。
改革開放路線が打ち出されてから10年後の1989年5月。天安門広場は政治の民主化を求める10万人の若者たちで埋め尽くされていた。だが、習近平と共産党指導部にとって、その光景はかつての苦い記憶「文化大革命」を想起させるものに他ならず、学生たちの民主運動は人民解放軍によって踏み躙られた。
天安門事件の2年後、銭学森はロケット開発の第一線を引退。一線を退いた銭は、自身の元を訪れたアメリカ時代の旧友、フランク・マーブルに複雑な胸中を打ち明けたという。「フランク、我々は中国のために多くのことをしてきた。人々は十分な食料を手に入れ、働き、進歩している。でもフランク、彼らは幸せではないんだ」……。
1995年、米中の協調関係は再び水泡に帰すこととなった。独立派の台湾総統・李登輝がアメリカを訪問したことを受け、中国はミサイル演習を実施して「アメリカが台湾に介入すればロサンゼルスを破壊する」と警告。アメリカもベトナム戦争以来最大となる戦力を台湾海峡に差し向けて威嚇した。当時、福建省の中堅幹部としてこの睨み合いを目にした習近平は軍事力でアメリカに大きく劣る中国の実情に大きな危機感を抱く。軍部との繋がりを強め、党内で存在感を増していった習近平は2013年に国家主席に就任。就任の席上で習近平は「『中国の夢』を実現するためには全国民の力を結集する必要がある。『中国の夢』は民族の夢でもあり、国民一人一人の夢でもある」と語り、アメリカとの対決姿勢を打ち出した。一方のアメリカも中国を「国際秩序に挑戦する意志と力を持つ唯一の競争相手」として位置づけ、対等のライバルとして認めた。
米中の対立が明確なものとなった2022年、1人の中国人の顔がアメリカの硬貨に刻まれた。100年前に活躍した女優、アンナ・メイ・ウォンである。先駆的な功績が讃えられた彼女と同じように、アメリカでは400万を超える中国系の人々が暮らしている。国家間の対立が深まる中でも人々の交流は変わらずに続き、2014年にはアメリカの実業家、マーク・ザッカーバーグが清華大学で講演を行っている。
清華大学を経て渡米し、ふたつの国を生きた科学者・銭学森。歴代の国家主席に見送られて2009年に97歳で世を去った彼は、死の直前にアメリカ時代の親友、フランク・マーブルからある贈り物を手渡された。一つは30年前に受け取ることができなかったカリフォルニア工科大学からのメダル。そして、もう一つは50年前にアメリカ政府によって逮捕された際に没収された論文だった。若き日の銭学森は、この論文にある言葉を走り書きを残している。「Nothing is Final!!!」(これで終わり、ということは何もない)。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年7月17日放送 13:55 - 15:50 日本テレビ
情報ライブ ミヤネ屋(特集)
今月15日~18日、中国・北京で、習近平指導部が党の最重要政策の方針や人事を決める「3中全会」が、非公開で開催されている。その会議で、習近平国家主席の妻の彭麗媛が、要職に就任するという噂が流れている。彭氏は中国の国民的歌姫で、18歳で人民解放軍歌舞団に入隊し、20歳で軍専属の歌手としてデビューを果たし、年越しの歌番組では最多出演を記録している。対して、習主席[…続きを読む]

2024年1月24日放送 23:50 - 0:35 NHK総合
映像の世紀バタフライエフェクト(映像の世紀 バタフライエフェクト)
19世紀末期、アメリカのゴールドラッシュは太平洋の向こう側から36万人の中国人を呼び寄せた。奴隷制度が廃止されたばかりのアメリカで中国人たちは大陸横断鉄道の敷設といった重労働に勤しんだが、職を奪われることを危惧する白人たちからの排斥運動に晒される。そうした中で生まれたのが、アメリカ初の中国系スター、アンナ・メイ・ウォン。ロサンゼルスの中国系移民三世として育っ[…続きを読む]

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