朝鮮から渡来した李参平は磁器の原料であるカオリンを発見し、窯を開いた。有田焼では柿右衛門様式、金襴手様式、鍋島様式といった表現方法が確立され、ヨーロッパの王侯貴族たちをも魅了した。明治になると、日本初の磁器製造販売会社が設立され、創設メンバーの5人は有田焼の質を向上させた。フィラデルフィア万博では褒状、パリ万博では金牌に輝いた。その後、創設メンバーは経営方針で意見が割れ、会社は分裂した。深海竹治は1883年のアムステルダム万博で金賞に輝いた作品などを手掛けるも、98年に肺結核のため50歳で死去した。