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「菊次郎」 のテレビ露出情報

愛知県安城市の依頼人は鮫島博志さん。鹿児島出身で芋焼酎が好きだという。お宝は地元の英雄にまつわるものだという。
鮫島さんのお宝は西郷隆盛が沖永良部島で書いたとされる書状。明治維新の立役者の西郷隆盛は生涯で2度、3つの島で生活している。1度目は1858年、井伊直弼による安政の大獄で幕府から追われることになった西郷は前途を悲観し死を覚悟し月照と共に鹿児島湾に入水。西郷のみが命をとりとめた。しかし、その後薩摩藩の命により奄美大島へ。島での生活は3年に及び、その間に島の娘と結婚し長男が誕生。一方、薩摩藩では、島津斉彬亡き後、島津久光が藩政を掌握。久光は朝廷と幕府を結ぶ公武合体を進めることになり、かつて京で情報収集に従事していた西郷を呼び戻した。二度目は1862年。久光が西郷に下関で待機するよう命じたが、上方の切迫した状況を聞いた西郷は独断で大坂へ。久光はこれに激怒し、刑罰として徳之島へ送られることとなった。斉彬を生涯の師と仰いでいた西郷が久光に批判的だったことも原因の1つと言われている。徳之島では愛加那と再会。久光の怒りは収まらず2カ月ほどで沖永良部島へ島変えとなった。当初は雨ざらしの牢だったが、座敷牢に移され生き延びたという。この時出会ったのが島流しにされていた書家の川口雪篷。西郷は多大な影響を受けた。西郷の座右の銘は「敬天愛人」だがそれは島での生活で天命を悟ったからと言われている。
薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件の賠償問題を巡り、1863年薩英戦争が勃発。その戦後処理と混乱の続く中央の政局へ薩摩藩が乗り出すためには藩士たちの精神的支柱となっていた西郷の存在は不可欠だった。そこで小松帯刀、大久保利通らが久光を説得。西郷は罪を赦され1864年に鹿児島に戻った。依頼品は西郷隆盛が沖永良部島で書いた書状。大嶋吉之助は西郷が島で用いた変名で宛名は禎用喜。この人物は徳之島で西郷を世話した役人だという。本人評価額は150万円。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月12日放送 22:45 - 23:15 NHK総合
謎解きドキュメント ツイセキ”消えた”西郷写真
福岡に住む諫山尚子さんは西郷隆盛の玄孫である。去年・一昨年と相次いで新たな写真が見つかったという。撮影場所はドイツで写っていたのは留学中だった息子の寅太郎・甥の隆準・弟の従道であった。また第一子の菊次郎と末っ子の酉三の写真もあり、酉三の写真が見つかったのは初めてであった。さらに西郷家にまつわる資料が次々と出てきた。そこで「西郷隆盛の写真はないのか?」を聞いて[…続きを読む]

2024年9月10日放送 20:54 - 21:54 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団(開運!なんでも鑑定団)
西郷菊次郎と酉三の写った写真。予想評価額は30万円だったが、評価額は100万円だった。谷野啓氏はキャビネサイズで伊藤博文の肖像などを撮影した丸木利陽により撮影されたと見られる。また、酉三の姿が映るのは貴重であるとともに、酉三の顔は整っている顔立ちであることから実際の西郷隆盛は美男子だった可能性もあるという。

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