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「豊進丸」 のテレビ露出情報

太平洋戦争中、戦渦に巻き込まれ、被害に遭った漁船は国の調査で1595隻とされているが戦後79年がたった今も被害の全容は分かっていない。その中には徴用漁船と呼ばれる旧日本軍によって漁師とともに徴用された漁船がある。戦地で輸送任務などを行っていた。兵庫県の香美町では徴用漁船の歴史と戦渦に巻き込まれて命をなくしていった漁師たちの思いを後世に伝えようとする人たちがいる。古くから底引き網漁が盛んな香美町。港にある慰霊碑には、太平洋戦争で徴用された漁船と漁師の名前が刻まれている。この町の漁船12隻と49人の命が戦地で失われた。山脇重信さん90歳。戦況が厳しくなった1944年、9歳のとき、父・庄七さんが乗る漁船が徴用され、フィリピンへ向かった。そこでは敵に見つかりにくい夜間に輸送任務を担った。船はフィリピン諸島で攻撃を受け炎上。庄七さんら乗組員は難を逃れたが、食糧が尽き、栄養失調などで次々と命を落とした。戦後、ふるさとに戻ってきた庄七さん。仲間の死を目の当たりにしたことで漁を続けることができなかった。
なぜ多くの漁師が戦争に巻き込まれていったのか。今回、旧日本軍の機密文書の中で戦地から民間漁船の徴用を強く求められていたことが明らかになった。旧海軍の歴史に詳しい専門家は戦況の悪化に伴い大型船に甚大な被害が出ていたこと、さらに小型船が島の多い戦地に適していたことが理由にあったと分析する。戦地で補給の役割などを果たした徴用漁船。徴用の際は軍と契約を結び漁師は軍属としてその指揮下に入った。地元の記録には当時の漁師たちの複雑な心境が残されていた。「国賊扱いされるのでしぶしぶ傭船に応じた」「抗議でもしようものなら、この非国民め!と一喝された」。契約は任意だったが、断ることのできない半ば強制的なものだった。防衛省防衛研究所戦史研究センター、米国立公文書館資料の映像。石原明徳研究員のコメント。
国の命令で戦地へ向かった漁師たち。死を覚悟して任務に臨んだ。地元の漁協で組合長を務める村瀬晴好さん74歳。祖父、晴雄さんは底引き網漁船・栄正丸の船長だった。面倒見がよく誰からも慕われていた。晴雄さんは戦地へと向かう途中、手紙を送っていた。そこには当初、自分を奮い立たせることばが並んでいた。しかし、戦況が厳しくなる中、次第に追い込まれていく。国の命令で翻弄された漁師たち。栄正丸は激戦地フィリピンで攻撃を受け沈没し、乗組員8人全員が亡くなった。晴雄さんが死を前に家族に残したことば「世にすねず、人を恨まず、純な気持ちを持ち続けることに努力して下さい」。多くの漁師の命が失われた事実を伝えていきたい。村瀬さんは地域の人たちと慰霊碑を守り続けている。取材した村瀬さんたちは地元で毎年8月に追悼行事を行っている。徴用漁船に関わった当時の漁師たちのことばを通じて戦争の悲惨さなどを若い世代に伝えていきたいと話していた。

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