1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんは37歳。猫車を押し続けて15年。その合間に読み続けた歌は4000詩以上。生まれは岩手の山奥。村の農業は振るわず、村人たちの暮らしは出稼ぎの送る金でつないでいる。妻と3人の子どもを養っている。出稼ぎはもう辞めたいと思っているが、脱穀の頃になるとなにかに急き立てられるように村を出る。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの故郷は岩手。家を空けるにあたっての心配事の1つは子ども。東京での仕事は毎年同じことの繰り返し。留守中に家の牛が子どもを生む予定。毎年この時期に村を離れる出稼ぎは50万とも100万ともいわれる。安部さんがこのころ詠んだ詩が「言いようの ない心もて揺られ居り 東北線の長き夜行車」。安部さんは8人きょうだいの6番目。教師を目指していたが時の校長と争って自ら投げ出した。結婚して子どもが生まれて以来15年、半年は出稼ぎ、残り半年は開拓の日々が続く。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。毎年のように繰り返す作業なのでコツを呑み込んでいる。ビルのコンクリート工事は途中で一息つけない。朝8時から夕方まで9時間、日当1300円。金額は五輪以来少しも上がっていない。子供たちの暮らしや故郷での農業にも金がかかるようになり、懐が苦しくなる一方。このころ安部さんが詠んだ詩が「土方やめ 考え考え牛飼いぬ 餌代つのりまたも出稼ぐ」。食費は1日300円、まともなおかずにはありつけない。「何時よりか 生きる喜びは食う事と 思い知らさる出稼ぎの日々」。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。日本の土建労務者は約300万人。都会に集まる出稼ぎ農民がその半数ほど。子どもたちがいる故郷の家は妻を中心に回っている。出稼ぎ労務者は手当を求めて好んで残業につく。残業1時間につき200円。安部さんの部屋は四畳半に5人、同居人はいずれも出稼ぎ農民。このことを思って詠んだ詩は「出稼ぎの 土方飯場に絶えざるは 焼酎 賭博 喧嘩 猥談」。安部さんは酒ではどうにもやりきれず、詩を作り始めた。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。初めて出稼ぎに来たのは22歳のとき。東京は人口1000万人、自分を知る者は1人もいない。詩を作るのはこの街に消えそうな自分を取り残そうとする時。「妻のため 妻と別れて稼ぎ居り 年毎つのる貧しさに耐え」。出稼ぎ農民の大半は世帯主か跡取り。集団就職と出稼ぎで若者を取られた村は火が消えたよう。安部さんはこの気持ちを分かってもらおうと歌集を出版。詩を作るにあたり始めは古新聞で勉強した。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんは苦しい気持ちを分かってもらおうと歌集を出版。雑誌への投稿を縁に先生と知り合い、この日はできたばかりの本を持って訪ねた。先生は歓び励ましてくれた。家族が待つ故郷の村では牛のお産が始まろうとしていた。これから酪農を伸ばしたい安部さんにとって重大な分かれ道だったが、子牛はメスではなくオスだった。安部さんはこれまで凶作、不景気、戦争など様々な挫折を経験。夢は農業だけで暮らすこと。「われ如何に 貧しくなるとも絶対に 出稼ぎはせじ農に生きなん」。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの故郷は岩手。家を空けるにあたっての心配事の1つは子ども。東京での仕事は毎年同じことの繰り返し。留守中に家の牛が子どもを生む予定。毎年この時期に村を離れる出稼ぎは50万とも100万ともいわれる。安部さんがこのころ詠んだ詩が「言いようの ない心もて揺られ居り 東北線の長き夜行車」。安部さんは8人きょうだいの6番目。教師を目指していたが時の校長と争って自ら投げ出した。結婚して子どもが生まれて以来15年、半年は出稼ぎ、残り半年は開拓の日々が続く。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。毎年のように繰り返す作業なのでコツを呑み込んでいる。ビルのコンクリート工事は途中で一息つけない。朝8時から夕方まで9時間、日当1300円。金額は五輪以来少しも上がっていない。子供たちの暮らしや故郷での農業にも金がかかるようになり、懐が苦しくなる一方。このころ安部さんが詠んだ詩が「土方やめ 考え考え牛飼いぬ 餌代つのりまたも出稼ぐ」。食費は1日300円、まともなおかずにはありつけない。「何時よりか 生きる喜びは食う事と 思い知らさる出稼ぎの日々」。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。日本の土建労務者は約300万人。都会に集まる出稼ぎ農民がその半数ほど。子どもたちがいる故郷の家は妻を中心に回っている。出稼ぎ労務者は手当を求めて好んで残業につく。残業1時間につき200円。安部さんの部屋は四畳半に5人、同居人はいずれも出稼ぎ農民。このことを思って詠んだ詩は「出稼ぎの 土方飯場に絶えざるは 焼酎 賭博 喧嘩 猥談」。安部さんは酒ではどうにもやりきれず、詩を作り始めた。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。初めて出稼ぎに来たのは22歳のとき。東京は人口1000万人、自分を知る者は1人もいない。詩を作るのはこの街に消えそうな自分を取り残そうとする時。「妻のため 妻と別れて稼ぎ居り 年毎つのる貧しさに耐え」。出稼ぎ農民の大半は世帯主か跡取り。集団就職と出稼ぎで若者を取られた村は火が消えたよう。安部さんはこの気持ちを分かってもらおうと歌集を出版。詩を作るにあたり始めは古新聞で勉強した。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんは苦しい気持ちを分かってもらおうと歌集を出版。雑誌への投稿を縁に先生と知り合い、この日はできたばかりの本を持って訪ねた。先生は歓び励ましてくれた。家族が待つ故郷の村では牛のお産が始まろうとしていた。これから酪農を伸ばしたい安部さんにとって重大な分かれ道だったが、子牛はメスではなくオスだった。安部さんはこれまで凶作、不景気、戦争など様々な挫折を経験。夢は農業だけで暮らすこと。「われ如何に 貧しくなるとも絶対に 出稼ぎはせじ農に生きなん」。
