- 出演者
- 池上彰 田中要次
オープニング映像。
今回再放送するのは、1960年代の日本テレビ界に「ヒューマンドキュメンタリー」というジャンルを切り開いた「ある人生」シリーズ。紹介するのは2本。1本目はターミナル駅であふれかえる乗客の対応に追われる「新宿駅長」(1967年)、もう1本は1年の半分を東京の過酷な工事現場で働く出稼ぎ農民を追った「出かせぎの歌」(1968年)。当時は高度経済成長のピーク。スタジオゲストは俳優で高度経済成長期に少年時代を送り以前は国鉄・JR職員だった田中要次。
新宿駅では現在、2度目の大規模開発が進行中。60年前、最初の開発の最中にあった駅で働く駅長・石川正三さんを追ったドキュメンタリー「新宿駅長」を再放送。駅西口は丸の内を凌ぐ規模で開発が進行中。乗降客数は東口を超えた。新設された地下広場には案内表が設けられたが、関係者おのおのの利害が絡んで乗客からの苦情が多い。駅長は積極的な改良を主張したが意見は通らず。駅長は英語でステーションマスターと言い、国鉄では「マスター」と呼ばれる。部下からはお父さんと呼ばれ、先輩・仲間からは「正ちゃん」と呼ばれる。
1967年放送、当時の新宿駅長・石川正三さんを追ったドキュメンタリーを再放送。駅長は毎朝6時起床、千葉から国電で通い7時40分に出勤。ラッシュアワーは必ずホームで指揮を取る。制服・制帽が嫌い。若い駅員が交代で世話。新宿駅は職員600人、発着する列車は1日1900本。1日の収入は旅客・貨物あわせて2000万円。長野鉄道管理局の全収入に匹敵する規模で国鉄にとって最も稼ぐ駅。学生アルバイトは50人。時給180円と安いので集まりが良くない。
1967年放送、当時の新宿駅長・石川正三さんを追ったドキュメンタリーを再放送。正月2日の朝、荻窪駅で脱線事故。折り返し用の電車が足りず駅長事務室はてんやわんや。石川さんの正月はこの年も不意になった。昭和3年、不景気の最中に国鉄に入社。生まれは千葉県松戸市、農家の三男坊。最初の赴任先は山手線・鶯谷駅。日給1円15銭、痰壷を洗い便所を拭いた。昭和11年、群馬に転勤しバスの車掌に。昭和19年、空襲の真っ最中に上野に異動。北千住で起きた事故にあい危うく命拾いした。妻とは見合い結婚。主は留守がちで、正月を一緒に祝うこともない。退職を考えたこともあったが重用が来るので思いとどまった。新宿駅ができて80年、石川さんが38代目の駅長。
1967年放送、当時の新宿駅長・石川正三さんを追ったドキュメンタリーを再放送。新宿駅長は国鉄現場職員にとって憧れの地位だが責任も重大。趣味は競馬だが現地で観戦する暇もない。この日は構内の見回り。職員に細かく指示を出す。現場のことは何でも知っていてごまかしは効かない。かつて国鉄では東大出を「特急」、小学校出を「鈍行」と呼ぶ差別があった。石川さんは高等小学校しか出ていないが、「一概に頭ばかりではいえない」「学歴で時期が来れば上がるようなシステムでやっているからうまくいかない」と話す。
1967年放送、当時の新宿駅長・石川正三さんを追ったドキュメンタリーを再放送。中央線上り快速は毎朝2分間隔で新宿駅に到着する。世界一の過密ダイヤだ。停車時間は1分間。駅員が乗客を押し込んで間に合わせている。押し込めない分は列車から引き剥がす。最も混雑するのは8時20分~40分。4つのホーム階段から1分間に1000人ずつはき出され、駅長は遅れを見越して改札や階段口を止める。電車1本につき客数3000人。新宿で乗り降りするのは1時間に12万人、乗り換え客は数え切れない。職員の時間外労働は制限されていて、年配の助役と公安官、50人の学生アルバイトで切り盛りしている。
1967年放送、当時の新宿駅長・石川正三さんを追ったドキュメンタリーを再放送。ラッシュの時間帯、ホームで指揮を取る駅長は地下道とホームの人並みを遠隔で監視。乗降客数は1日124万人。年に7%ずつ増えていて、昭和45年には156万人になる予定。増便などの対策を講じてもすぐに元通りのラッシュになってしまう。新宿駅は長い間大きな事故が起きていない。客にケガをさせないというのが石川さんの信念。国鉄職員になって39年、緊張の連続から熟睡したことがない。定年まであと1年。入社当初は駅の清掃係。当時のダイヤは世界一の過密といわれた。
スタジオゲストの田中要次は元国鉄・JR職員。担当業務は保線。枕木を取り替えるなど力仕事だった。もともと地元就職を目指していて、ほかにも公務員試験を受けていた。合格したときは嬉しく、のどかな駅の駅長になれることを夢見ていた。
1960年代の東京を年表で振り返る。60年、池田勇人総理大臣が所得倍増計画を打ち出す。62年、東京の人口が1000万人突破。新宿駅が再開発中だった67年、その駅長を追ったドキュメンタリー「ある人生~新宿駅長~」が放送された。当時長野にいた田中は東京について「アメリカくらい遠い場所」と感じていた。上京してすぐに母が訪ねてきて、新宿駅のホームで待ち合わせ。母は東京の景色に驚いていたという。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんは37歳。猫車を押し続けて15年。その合間に読み続けた歌は4000詩以上。生まれは岩手の山奥。村の農業は振るわず、村人たちの暮らしは出稼ぎの送る金でつないでいる。妻と3人の子どもを養っている。出稼ぎはもう辞めたいと思っているが、脱穀の頃になるとなにかに急き立てられるように村を出る。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの故郷は岩手。家を空けるにあたっての心配事の1つは子ども。東京での仕事は毎年同じことの繰り返し。留守中に家の牛が子どもを生む予定。毎年この時期に村を離れる出稼ぎは50万とも100万ともいわれる。安部さんがこのころ詠んだ詩が「言いようの ない心もて揺られ居り 東北線の長き夜行車」。安部さんは8人きょうだいの6番目。教師を目指していたが時の校長と争って自ら投げ出した。結婚して子どもが生まれて以来15年、半年は出稼ぎ、残り半年は開拓の日々が続く。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。毎年のように繰り返す作業なのでコツを呑み込んでいる。ビルのコンクリート工事は途中で一息つけない。朝8時から夕方まで9時間、日当1300円。金額は五輪以来少しも上がっていない。子供たちの暮らしや故郷での農業にも金がかかるようになり、懐が苦しくなる一方。このころ安部さんが詠んだ詩が「土方やめ 考え考え牛飼いぬ 餌代つのりまたも出稼ぐ」。食費は1日300円、まともなおかずにはありつけない。「何時よりか 生きる喜びは食う事と 思い知らさる出稼ぎの日々」。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。日本の土建労務者は約300万人。都会に集まる出稼ぎ農民がその半数ほど。子どもたちがいる故郷の家は妻を中心に回っている。出稼ぎ労務者は手当を求めて好んで残業につく。残業1時間につき200円。安部さんの部屋は四畳半に5人、同居人はいずれも出稼ぎ農民。このことを思って詠んだ詩は「出稼ぎの 土方飯場に絶えざるは 焼酎 賭博 喧嘩 猥談」。安部さんは酒ではどうにもやりきれず、詩を作り始めた。
1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんの仕事場は東京・赤坂の12階建てビル工事現場。初めて出稼ぎに来たのは22歳のとき。東京は人口1000万人、自分を知る者は1人もいない。詩を作るのはこの街に消えそうな自分を取り残そうとする時。「妻のため 妻と別れて稼ぎ居り 年毎つのる貧しさに耐え」。出稼ぎ農民の大半は世帯主か跡取り。集団就職と出稼ぎで若者を取られた村は火が消えたよう。安部さんはこの気持ちを分かってもらおうと歌集を出版。詩を作るにあたり始めは古新聞で勉強した。
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1968年放送、当時の建設現場を支えた出稼ぎ農民を追ったドキュメンタリーを再放送。安部英康さんは苦しい気持ちを分かってもらおうと歌集を出版。雑誌への投稿を縁に先生と知り合い、この日はできたばかりの本を持って訪ねた。先生は歓び励ましてくれた。家族が待つ故郷の村では牛のお産が始まろうとしていた。これから酪農を伸ばしたい安部さんにとって重大な分かれ道だったが、子牛はメスではなくオスだった。安部さんはこれまで凶作、不景気、戦争など様々な挫折を経験。夢は農業だけで暮らすこと。「われ如何に 貧しくなるとも絶対に 出稼ぎはせじ農に生きなん」。
東京圏への転入超過数がピークだったのは高度経済成長期の1960年代。このころ地方では、出稼ぎで離れたお父さんに代わりじいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんで農家を守っている状態を指す「三ちゃん農業」という言葉が生まれた。求められるのは地方・都市でバランスがとれた経済成長。このひずみから国鉄では赤字が増え、末期のころは労組による集会・デモが増加。元国鉄職員の田中は以前、俳句の番組に出演。今は短歌に挑戦。鉄道職員だったころを思って詠んだ詩は「分岐点 右も左も先見えず 我たたずみし東海道線」。
東京では現在、大規模な再開発が続いている。地方では人口が減少する一方、東京は1400万人を抱える大都市となった。
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