- 出演者
- 池上彰 井上ユリ
オープニング映像。
今回、96年放送「世界わが心の旅 プラハ 4つの国の同級生」を再放送。60年代、父親の海外赴任に伴い1人の日本人少女が社会主義国チェコスロバキアの小学校に通った。それから31年の時が流れ、彼女は消息が絶えていた3人の同級生を探し欧州各地を巡る。女性はロシア語同時通訳・エッセイストの米原万里さん。スタジオゲストはその妹で料理教室主宰の井上ユリさん。姉と同じくチェコスロバキアの学校に通っていた。
社会主義国チェコスロバキアのプラハにあった小学校。仲良しの少女4人組は国籍がバラバラ。卒業後は離れ離れになり一度も会わず。その1人はロシア語同時通訳の米原万里さん。共産党幹部だった父の影響で9歳~14歳までの5年間をプラハで過ごした。ここ数年の東欧の激動を他人事とは思えなかった。通っていたのはインターナショナルスクールだったロシア語学校。同級生の国籍は様々で、共通語は学校で学んだロシア語。友達3人の出身地は旧ユーゴスラビア、ルーマニア、ギリシャ。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生でルーマニア出身のアナさんを訪ね、思い出帳に書かれていた住所に向かった。ルーマニアは1989年に社会主義体制が崩壊。当時の大統領が進めていた街の大改造と全ての建築工事が止まり、今も放置されたビルが残る。米原さんは卒業してから4年後、人づてにアナが外国人と結婚したことを知る。当時ルーマニアでは外国人と結婚するのはご法度。アナは幹部の娘で裕福な家の出身。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生でルーマニア出身のアナさんを訪ね、思い出帳に書かれていた住所に向かった。家の前には警備員が多数。ここは政府の要人たちの住まいで、共産党時代から住み続けている人もいる。部屋に行くと両親と再会。アナさんはロンドンに暮らしているという。父はチャウシェスク政権下で外交官を務めた人物。現在は引退し年金生活。アナさんが当時ご法度とされる国際結婚するにあたり、父親が関係先に頼み込んだという。連絡先を聞きアナさんに電話。プラハで再会する約束を取り付けた。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生で旧ユーゴスラビア出身のヤースナさんを訪ね、ベオグラードに向かう。飛行機がほとんどないので夜行列車で行くのが一番早い。予定より少し遅れて出発。ルーマニアからベオグラードまで600km・12時間の旅。ヤースナさんはいつも冷静で抜群に頭が良かった。思い出帳に書かれているのは住所とセルビア人の母国語で書かれたメッセージ。ユーゴスラビアでは内戦が続いているものの、ベオグラードは戦火から遠く至って穏やか。ヤースナさんは街の人口の6割を占めるセルビア人。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生で旧ユーゴスラビア出身のヤースナさんを訪ね、思い出帳に書かれていた住所に向かった。現地の人に話を聞き、今はここに住んでおらず父の出身地であるボスニアのサラエボに引っ越したと判明。このあたりでは民族主義に大国の思惑が入り乱れ3年半に及ぶ内戦が続いた。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生で旧ユーゴスラビア出身のヤースナさんを訪ね、思い出帳に書かれていた住所に向かったが会えず。ヤースナさんのモスリム人のほとんどはイスラム教徒。ベオグラードに唯一残るモスクに来て調べたところ、まだベオグラードに住んでいることが判明。電話がつながり約30年ぶりに再会。今は息子と娘がいる。内戦の影響もあり辺りはセルビア人にとって住みづらい環境で、ヤースナさんも国際機関で働いていたがモスリム人というだけで職を失った。民族性を意識するのが辛く、「空気のような存在になりたい」と話す。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生でギリシャ出身のリッツァさんを訪ねチェコにやってきた。リッツァさんはチェコに亡命してきたギリシャ人の娘。手がかりを求めてやってきたのはギリシャからの移民で作るコミュニティー。当時ギリシャは政情不安で数多くの人が流れ込んだ。今の子供達はその3世。リッツァさんは当時勉強が苦手だったが、調べてみると名門カレル大学を成績に問題がありながらも卒業していた。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生でギリシャ出身のリッツァさんを訪ねやってきたのは、ギリシャ人がよく集まっているという居酒屋。店主はリッツァさんの親戚。わかったのは、父がソ連のプラハ侵攻に反対したため一家で西ドイツに逃れたこと。家を訪ねてみるとリッツァさんと再会できた。今は医者。自身の判断ではなく両親が決めたという。両親は民主主義者で、娘がどこに行っても自由に生きられるよう医者を勧めた。いま開いているクリニックでは患者の8割はギリシャ人。もうギリシャに帰るつもりはないという。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生でルーマニア出身・ロンドン在住のアナさんとプラハで待ち合わせ。待ち合わせ場所は激動のチェコ現代史の舞台となったバーツラフ広場。待っているとアナさんと再会。今は大手旅行雑誌の編集者。英国人の夫と2人の娘がいる。2人が学んだロシア語学校は校舎だけが残り、今は高等看護学校になっている。その校舎を訪れてみると設備は当時のまま。思い出深いのは集団主義の訓練でもあった創作体操を習った体育館。当時はその体制が正しいと信じ込んでいたが、卒業後に違う世界があることに気づいたという。
小学生時代をプラハで過ごしたロシア語同時通訳の米原万里さん。同級生でルーマニア出身・ロンドン在住のアナさんとプラハで再会。イギリスで暮らし始めて20年以上。英語の生活の中で、プラハで学んだロシア語は次第に失われていった。「ルーマニアは私にとって10%くらいの存在」「もうルーマニア人というよりイギリス人」と話す。米原さんはロシア語を、アナさんは英語をそれぞれ話しているが、お互いを知っているためニュアンスまで伝わっている。
ここまで、96年放送「世界わが心の旅 プラハ 4つの国の同級生」を再放送。米原万里さんが亡くなってから20年。再会できた当時は妹のユリさんのもとにも電話があったという。米原さんは再会後、3人への取材をもとに「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を出版。ユリさんは米原さんの思いについて、「1人1人が歴史を生きているということを伝えたかったのでは」と推察。
第2次大戦が終わったのは1945年。東西冷戦下の59年~64年、米原さんは東側諸国であるチェコスロバキアのプラハで過ごす。68年、チェコスロバキアで自由化を求める「プラハの春」が起きる。これをソ連などが軍事力で鎮圧した。リッツァ・パパドプロさんの父はソ連を批判したため仕事を失い西ドイツへ逃れ、生きるために苦手だった勉強に打ち込み医者となった。71年、アナ・ザハレスクの母国ルーマニアでは独裁が強まる。アナの父は政府高官で豊かな暮らしをしていた。一家はユダヤ人で次第に冷遇されるようになった。
89年、ドイツでベルリンの壁が崩壊。東欧では共産主義体制が次々崩壊。ヤースナ・ディズダレービッチの祖国ユーゴスラビアでは内戦が10年続いた。ヤースナさんの民族への虐殺も続いた。ヤースナさんはセルビアに逃れ、「空気のような存在になりたい」と話していた。
06年に亡くなるまで世界を回って通訳・作家として活躍した米原万里さん。対立や分断という難問に生涯向き合い続けた。「違うからこそ共通のものを発見したときの喜びがある」と話していた。
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