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「長安市(中国)」 のテレビ露出情報

三国時代。長年ともに戦ってきた劉備が白帝城で病に倒れていると聞き、諸葛孔明は長江のほとりの道を急いでいた。やがて劉備は跡継ぎとなる息子を孔明に託し、息を引き取る。孔明は宿敵義との決戦の準備を始め4年後、四川盆地から北へ兵を動かし始める。これが孔明の北伐の始まりである。目的地長安の前に素嶺山脈が立ちふさがり、孔明は東から大回りのルートを選んだ。北伐は5回に渡り、兵たちの食料も欠かせない。途中で食料が不足し撤退を余儀なくされることもあった。孔明は大量の食料を運ぶため木牛流馬を開発、木箱の下には車輪が付いており、牛や馬で大群に見せかけたという説もある。木箱はからくりしかけで味方にしかあけられなかったという。木箱のからくりは現在庶民のおもちゃとして親しまれている。軍は長安まであと一歩、街亭は「泣いて馬謖を斬る」という言葉が生まれた戦の舞台である。孔明は目をかけていた馬謖を戦いの主将に大抜擢。山の下に陣をはるよう馬謖に告げたが、忠告を聞かず街亭の上に陣を張ってしまう。これをみた義は下の川を抑え、水を絶たれた馬謖の軍は多くの戦死者を出し敗北。愛弟子の失敗だが孔明は泣く泣く馬謖を処刑した。孔明が北伐を初めて7年、自分の天命を感じていた。最終決戦は五丈原、義の軍を見通せる絶好の場所、川に囲まれていた。さらに畑を耕し兵力を蓄える。あとは相手が出てくるのを待つだけだったが、相手の司馬仲達は全く出てこようとしない。しびれを切らした孔明は仲達に女物の衣服を送り挑発、仲達は孔明の体調不良を知っていたため戦を仕掛けてこなかった。3カ月がすぎ、孔明は息を引き取る。五丈原にはこのとき空から降ってきた石が今でも残されている。孔明が死ぬと蜀の軍隊は撤退、仲達は孔明の罠だと恐れ追うことはしなかった。「死せる孔明生ける仲達を走らす」、死んだ人が大きな影響力を持つという言葉はここから生まれた。亡骸は漢中の定軍山、かつて劉備が漢の王を名乗った栄光の地に葬られた。ここに眠ることは孔明の遺言であった。

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