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「鮎川義介」 のテレビ露出情報

佐藤信行さんの依頼品はダットサントラック。約70年前に作られたものだという。橋本増治郎は1902年、農商務省の海外実業練習生に選ばれ、3年間アメリカで機械技術を習得。1911年に快進社自動車工場を設立。当時日本は輸入車に市場を独占されており、国産自動車の普及こそが経済産業界の悲願だった。1914年、橋本は東京大正博覧会に自動車を出品。ほとんどを国産品で作り上げた画期的なもので3人の出資者である田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字をとり、DATと命名。動作が早いことの意味がある脱兎も込められている。多くの部品からなる自動車を作るには1社の力だけでは不可能で日本の工業力全体のレベルアップを待たなければならなかった。快進社はその後、大阪の自動車メーカーと合併。ダット自動車製造が設立された。1931年、小型自動車を発表。DATの息子という意味を込め、ダットソン(DATSON)と命名されたが、ソンは損益の損に通じることから1年後にダットサン(DATSUN)に改名された。価格は輸入車に比べ格安で日本の狭い道路でも扱いやすく燃費もよかった。また、当時は500cc以下は無免許で乗れたため、人気となった。
ダットサンの登場に自動車産業の発展を予感したのが日本産業の創業者・鮎川義介。鮎川はダット自動車製造を買収し、1934年に日産自動車を設立。横浜に部品製造から組み立てまで一貫して行う日本初の工場を建設。これにより1932年には150台だった生産数が3年後には3800台にまで増え、国産自動車の量産が可能になった。また、セダンやトラックなど様々な車種を発表したが、共通のエンジンなどを用い、コストを抑えたことによる。戦後は復興の大きな原動力となり、1960年代後半、マイカーブームが巻き起こると庶民の車として愛された。ダットサントラックはその後も長きにわたり作られ続けたが、国内向けは2002年、海外向けは2023年に販売終了となった。依頼品は70年程前に作られたダットサントラック。外装は塗り直されているものの、ユニークな動きの方向指示器やシンプルなハンドルなどは当時のまま。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年9月4日放送 22:00 - 22:58 テレビ東京
ワールドビジネスサテライト(ニュース)
元日産のエンジニア、APB創業者・堀江英明氏は世界に先駆け、EV用の車載電池のシステムを開発し、2010年、世界初の量産型EV「リーフ」の発売を実現させた人物。2018年、日産を離れてAPBを立ち上げ、リチウムイオン電池の先の先を行くまったく新しい電池、全樹脂電池の開発に着手した。通常のリチウムイオン電池は電極を金属で覆っているため、外部からの衝撃が加わると[…続きを読む]

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