沿岸部の高台にある広大な大地。この場所に建設されたのが東京電力福島第一原発。戦時中にここに飛行場があり、空襲の被害を受けた。空襲から65年以上が経過し、この場所で起きたのが原発事故だった。福島第一原発には旧陸軍の飛行場があったと示す石碑が残されている。原発事故により人々がいなくなった町で、戦時中、何が起きていたのか?その記憶に迫った。大熊町から避難する鎌田清衛さんは、原発事故が起きてから避難区域で続けていることがある。帰還困難区域に残された戦争があったことを記す石碑があり、住民が帰ることができない場所で石碑の文字を写し取る作業を続けている。フロッタージュと呼ばれる技法で石碑に和紙を重ねて木炭のチョークでこすっていく。鎌田さんの自宅があったのは福島第一原発から3キロの場所で、原発事故が起きる前は梨農家をしていた。自宅や畑があった場所は除染で出た土などを一時保管する中間貯蔵施設が整備された。
避難先の自宅には、石碑の文字をうつしとった和紙を保管。その数は数百枚にのぼる。福島第一原発にある石碑を写し取った和紙。その石碑は磐城飛行場跡地記念碑。大熊町、夫沢地区の福島第一原発がある場所にかつて旧陸軍の磐城飛行場があった。記念碑に刻まれていたのは飛行場の土地に、福島第一原発が建てられるまでの出来事。原発事故が起きた5年後には特別に許可をもらい、福島第一原発に入った。敷地の南側にある記念碑の文字を写し取るためだった。自分の手で作業をすることは叶わなかったが、完成した際の思いは忘れることはできなかったという。磐城飛行場がどんな場所だったのか?地元の町役場にも詳しいことは書かれていなかったという。福島第一原発に建てられた石碑には、1945年8月に飛行場が空襲を受けたことが記された。その様子は襲撃したアメリカ軍の戦闘機が撮影した映像にも残っていた。当時飛行場の近くに住んでいた人たちは原発事故によって避難を余儀なくされている。 埼玉県に避難する林さんは、原発事故前もほうれん草農家だった。自宅があったのは福島第一原発から2.5キロの場所。中間貯蔵施設が整備されたために帰ることはできない。避難してから15年が経過するが、ふるさとの戦時中の記憶は今も薄れることはない。
1940年に建設が始まった磐城飛行場。11件の民家が強制的に立ち退きを迫られたあとに勤労奉仕で駆り出された旧制双葉中学校の生徒たちが手作業で整備した。当時は宇都宮陸軍飛行学校の磐城分校として開校。全国から集まった少年飛行兵たちが空を目指して訓練を行っていた。練習機は赤とんぼと呼ばれていて、磐城飛行場には、60機ほどあったという。全国の飛行学校で使用されていたが戦況の悪化にともない、実用機が不足すると特攻機としても使われた。飛行場のあった夫沢地区に住んでいた人は飛行機が飛んでいくのを見たという。大熊町からいわき市に避難した吉田さん。大熊町で生まれた後に両親で東京で暮らしていたが、空襲が激しくなると大熊町へと疎開した。その頃、磐城飛行場は特攻隊を養成する基地になっていた。1945年8月9日、10日に磐城飛行場の一帯にアメリカ軍の戦闘機が飛来した。吉田さんの自宅は被害を免れたが、44軒が全焼し、疎開していた一家4人が亡くなった。福島県内では空手で少なくとも608人が死亡した。アメリカ軍の空襲の少し前に、期待の一部は別の場所へ運ばれていた。機体を運んだ1人は飯沼秀夫さん。運ばれた先は県内有数の桜の名所として知られる夜の森地区。当時12歳だった飯沼さん同じ学校の生徒と運んだという。以前は郡山市に避難していた飯沼さん。夜の森の桜並木が滑走路になる構想があったことを明かしてくれた。機体を運んだ先が桜並木の近くにある公園。ロープで引いて10キロの道を歩いた。その後隠した練習機は姿を消したという。
アメリカ軍の空襲で壊滅した磐城飛行場。その後に飛行場の跡地には塩田が整備された。しかし採算が取れずに10年で廃業した。その後、残された大地に誘致されたのは福島大一原発だった。地元には雇用が生まれ急速に活気づいたという。一方、この場所に飛行場があったことは住民の記憶から薄れていった。終戦後から43年後に原発の敷地に作られたのが磐城飛行場跡記念碑だった。記念碑を建てた。大熊町から避難する中野さんは記念碑を建てた1人。記念碑の発起人となったのは地元で行政地区をしていた杉本正衛さん。ノートには建てた時の思いが書いてあった。
避難先の自宅には、石碑の文字をうつしとった和紙を保管。その数は数百枚にのぼる。福島第一原発にある石碑を写し取った和紙。その石碑は磐城飛行場跡地記念碑。大熊町、夫沢地区の福島第一原発がある場所にかつて旧陸軍の磐城飛行場があった。記念碑に刻まれていたのは飛行場の土地に、福島第一原発が建てられるまでの出来事。原発事故が起きた5年後には特別に許可をもらい、福島第一原発に入った。敷地の南側にある記念碑の文字を写し取るためだった。自分の手で作業をすることは叶わなかったが、完成した際の思いは忘れることはできなかったという。磐城飛行場がどんな場所だったのか?地元の町役場にも詳しいことは書かれていなかったという。福島第一原発に建てられた石碑には、1945年8月に飛行場が空襲を受けたことが記された。その様子は襲撃したアメリカ軍の戦闘機が撮影した映像にも残っていた。当時飛行場の近くに住んでいた人たちは原発事故によって避難を余儀なくされている。 埼玉県に避難する林さんは、原発事故前もほうれん草農家だった。自宅があったのは福島第一原発から2.5キロの場所。中間貯蔵施設が整備されたために帰ることはできない。避難してから15年が経過するが、ふるさとの戦時中の記憶は今も薄れることはない。
1940年に建設が始まった磐城飛行場。11件の民家が強制的に立ち退きを迫られたあとに勤労奉仕で駆り出された旧制双葉中学校の生徒たちが手作業で整備した。当時は宇都宮陸軍飛行学校の磐城分校として開校。全国から集まった少年飛行兵たちが空を目指して訓練を行っていた。練習機は赤とんぼと呼ばれていて、磐城飛行場には、60機ほどあったという。全国の飛行学校で使用されていたが戦況の悪化にともない、実用機が不足すると特攻機としても使われた。飛行場のあった夫沢地区に住んでいた人は飛行機が飛んでいくのを見たという。大熊町からいわき市に避難した吉田さん。大熊町で生まれた後に両親で東京で暮らしていたが、空襲が激しくなると大熊町へと疎開した。その頃、磐城飛行場は特攻隊を養成する基地になっていた。1945年8月9日、10日に磐城飛行場の一帯にアメリカ軍の戦闘機が飛来した。吉田さんの自宅は被害を免れたが、44軒が全焼し、疎開していた一家4人が亡くなった。福島県内では空手で少なくとも608人が死亡した。アメリカ軍の空襲の少し前に、期待の一部は別の場所へ運ばれていた。機体を運んだ1人は飯沼秀夫さん。運ばれた先は県内有数の桜の名所として知られる夜の森地区。当時12歳だった飯沼さん同じ学校の生徒と運んだという。以前は郡山市に避難していた飯沼さん。夜の森の桜並木が滑走路になる構想があったことを明かしてくれた。機体を運んだ先が桜並木の近くにある公園。ロープで引いて10キロの道を歩いた。その後隠した練習機は姿を消したという。
アメリカ軍の空襲で壊滅した磐城飛行場。その後に飛行場の跡地には塩田が整備された。しかし採算が取れずに10年で廃業した。その後、残された大地に誘致されたのは福島大一原発だった。地元には雇用が生まれ急速に活気づいたという。一方、この場所に飛行場があったことは住民の記憶から薄れていった。終戦後から43年後に原発の敷地に作られたのが磐城飛行場跡記念碑だった。記念碑を建てた。大熊町から避難する中野さんは記念碑を建てた1人。記念碑の発起人となったのは地元で行政地区をしていた杉本正衛さん。ノートには建てた時の思いが書いてあった。
