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「INOKI BOM-BA-YE 2002」 のテレビ露出情報

プロレスラーの中邑真輔が登場。WWEの日本興行のために今戻ってきているという。中邑は日本での試合は全日程終了したが次の試合ギリギリまで日本にいたいという。必ず行きたい場所には温泉と答えたがアメリカにも温泉があるが場所があまりにも限られていると答えた。アメリカの大きいイベントでは10万人ほどの観客が入るというWWE。各地方都市には5万人以上規模のスタジアムがあるという。中邑は2016年に新日本プロレスからWWEに移籍。すぐにベルトを獲得しスターダムに駆け上がり地位を獲得した。中邑はアメリカでの移動について広大な国なのでその移動も木曜に毎週2回は必ず飛行機にのって移動し金曜には生放送の試合に出場し、土日にはハウスショーというテレビではないイベントに出場し車で4時間は移動する必要があるという。そして月曜に飛行機で帰宅する生活している。自宅でゆっくりできるか?にこのスケジュールが固定化されていることもあって取れると答えたが、また休暇申請もできるとあって、子供のために休みをいれることもあるという。また休日は家族に心配されるほど出かけると答えたが、妻に休まないのか?と心配されることもあると答えた。
中邑はアメリカでの生活はすぐに慣れたか?にコーディネーターも通訳もいないよいう中で銀行口座の開設からインターネットを引く所まで自分でやったという。またアメリカでの家探しの際には治安を気にしたと答え、安全をお金で買う必要があると感じたと答えた。WWEで実力、キャラ、人気を確固たるものにした中邑真輔。その歩みを深堀りしていく。2002年に新日本プロレスでデビュー。翌年には新日本プロレス最強の称号のIWGPヘビー級王座を獲得。中邑はPRIDEやK-1と格闘技が全盛の時代でデビュー前から総合格闘技を練習し、プロレス以外からも期待を受けていたという。その自分のなりたい像は変わってくるか?について元々そういったなりたいものがなく、スタンダードなプロレスラーになっていくと思っていたがデビュー戦が日本武道館、次戦の相手が総合格闘家のダニエル・グレイシーだったりし新人として異例だった。その時代ではアントニオ猪木がプロデュースするイベントで格闘家と対戦したが、出場したのは主催者のアントニオ猪木に突如呼ばれ面談が行われた。その時に何も考えていなかったがアントニオ猪木が言いたいことがあるらしいな?と聞かれたために空気を読み、その試合に出させてほしいと直訴する形になったという。
中邑は20代については狂った時代だったと述べたが格闘技のバブルとも相まって高級車のポルシェを購入した。派手に飲み歩いたりもしていたが昔のプロレスに対する憧れがあっただけで実際にそういうことは好きではなかったと答えた。しかしそれに急に冷めて飲み放題がついているスナックに行きだしたこともあったという。中邑は高校・大学時代レスリン部に所属していた。この時からプロレスラーになりたいと思っていたというが、海外に行くとプロレスリングスクールはあるが日本にはなく、獣神サンダー・ライガーなどの先輩はアマチュアレスリング経験者だったなど、共通点があり一歩近づけると思い始めたという。またレスリングで全国大会準優勝となった中邑だが相手のバックをとってプロレス技のグラウンド・コブラツイストを狙ったという。しかしそれに失敗して準優勝になってしまったと答えた。またこの時格闘技もしていた中邑。先輩にはレスリングでオリンピック選手などがいたが、自身は総合格闘技では実績を残していなかったがスパーリングだけは負けなかったと答えた。そのためにヘロヘロになって家に帰ってきていたが、スパーリングのときも休める技をかいけていたという。
中邑は2000年代の新日本プロレスの雰囲気について厳しかったと答え、スクワットを1000回、平成の時代は練習中の水飲みは禁止、またカール・ゴッチ式というダンベルなどの器具は遣わずに自重を負荷にするトレーニングもきつかったという。また当時の新日本プロレスはトタン屋根で外気温が熱くなると部屋は40度ほどになり、コーチがトイレにいったタイミングでリングの下に凍らせたペットボトルを隠していたりなど過酷だったという。WWEについて中邑は皆いろいろな競技出身の選手が多くアメフト、体操、チアリーダー、コメディアンなど多種多様だという。選手を育成するパフォーマンスセンターでは体操と筋トレ、演技指導などもあったという。しかしプロレスの知識がないと厳しいと感じと答え、中にはWWEのことを知らずにすぐにスターになれると勘違いしている人が入ってくることもあると答えた。また世界各地のWWEの盛り上がりについて中邑は、各地で変わってくるというが日本人についてはおとなしいようにも見えるが、前知識をもっている人が多く、玄人目線にジャッジしようという人が多く感じるという。またアメリカ人が日本でプロレスをするとビビることがあるというが、日本は格闘技も盛んでプロレスに歴史があり、選手には下手なことをするとバッシングがくるとあらかじめビビらせていると答え、実際に日本で試合することに憧れている選手もいると語った。また昔には日本の試合をVHSで録画しアメリカで海賊版を売っている業者もあったほど日本の試合も観られていたという。
中邑が思う日本人レスラーとアメリカ人レスラーの違いについて国民的気質と答えたが、日本人は自分をアピールするのが弱く、背中で語ろうとしがちだという。逆にアメリカ人は空気が読めないので頑張って良い仕事をしてもこの待遇でも良い仕事をするんだくらいに終わってしまうという。自分でギャランティの交渉をするなどの行動力が必要になるという。また中邑は22年のプロレスで唯一無二のスタイルを確立。しかしそのスタイルに至るまでは紆余曲折あったという。中邑は今のスタイルについてアメリカではまずキャラクターだと言われるという。所属団体が決まるまでは皆無所属という中でインディーズのショーで自分の決めたキャラでプロレスをしていく。しかし日本では逆に基礎を固めて海外でキャラをみつけてくるのが基本のベースに。そのためにアメリカではカウボーイキャラをしていたのに急に大統領候補というキャラになっていた時があったという。またキャラがほしいと感じた時について中邑は格闘技をベースにしていたので格闘技のようなスタイルを臨んでいたがガチガチのプロレスファンには嫌われ、格闘技好きからはプロレスラーと言われたという。その後ヒールとしてかつや牛、2011年の大震災をうけて人が簡単に死んでしまうことを痛切に感じた中邑は自分の好きなものをかけあわせたキャラを模索し、今に至るという。そのキャラの最初のお披露目はメキシコだったと答え、コスチュームを用意しモヒカンにしたがマイケル・ジャクソンのようなプロレスラーが踊り狂って入場していると新日本プロレスに苦情があったという。その姿をみた日本のファンもどうしてしまったのか?と思われたがそこはやり切ればファンもそれを受け入れてくれるという。後を振り返ってしまえば終わりだと答えた。
若林は内藤哲也がヒールになって戻ってきた時に客席からキャラを変えるのか?と身も蓋もない野次が飛んできたがそんな事を言うもんではないと思ったと語る。中邑もそういった嫌な客はいて、世界観を壊すような事をいうと答えた。また自身の代名詞であるイヤァオ!が生まれた経緯には小さい頃に夜明けの時間帯に、白いサギが飛んでいたことがあったがその時にイヤァオ!と鳴いたことがありこんな声で鳴くのかとショックを受けたことが脳裏に焼き付いていたからだという。現在44歳の中邑は今後の変化については今も悩んでいると答え、今の仕事のままでいのかと思ったことがあるという。またWWEの移籍についてはラストチャンスだと思って挑戦したことで、昔の時代30歳オーバーの選手は隅に追いやられる傾向にあったと語り、自分もそうなってしまうのか?と危惧していた。自分が高く売れる時に行ってみようと思ったと答えた。いい試合をした手応え中邑は自分のポテンシャル以上のものが出せた、キャラが新しく生まれたと感じた時は興奮に包まれるという。最近でも自由度の高い試合では手応えを感じたと答えた。また、夢がかなってくると刺激がなくなるのでは?に中邑は自分のキャリアは前半生き急いでると思われるほどだったと答えた。また年齢を重ねることについては体の年齢は人種によって違うと感じるが、自身の年齢そのものについて意識はしないようにしていると答えた。また幅広げて行きたいと答えた。
中邑はまた演技にも興味があり何でもやりたいと感じるという。またオリンピックも観ているというが若い人が頑張っている姿が純粋に嬉しく、日本人が海外で頑張っているとキュンとし、同情すると答えた。

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