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「NHKスペシャル」 のテレビ露出情報

魂のピアニストと呼ばれたフジコ・ヘミングは今年4月に亡くなった。フジコ・ヘミングは一時国籍を失ったり、耳が聞こえなくなるなど厳しい試練に直面。しかし、のちに遅咲きのピアニストとして世界中のファンを魅了した。詩画作家の星野富弘も今年4月に亡くなった。星野富弘は24歳の時、不慮の事故で手足の自由を失った。口に筆をくわえて草花を描き、言葉を添える独自のスタイルを確立。繊細な作品は多くの人々の共感を呼んだ。
フジコ・ヘミングは昭和6年、日本人の母とスウェーデン人の父のもとベルリンで生まれた。その後、日本に移り、5歳の頃からピアニストの母にピアノを教わる。日中戦争が始まると、父は一人でスウェーデンに帰国した。残された母が弾くピアノを聞いて育った。しかし、母のレッスンは厳しいものだったという。8歳の時、NHKのラジオ番組でショパンを演奏し、天才少女と呼ばれる。ところが16歳で中耳炎をこじらせ、右耳の聴力を失う。それでもピアニストになる夢を諦めなかった。東京藝術大学に進学、新人音楽家の登竜門「NHK毎日コンクール」で入選し、ドイツ留学を目指す。今度は戦後の混乱の中、国籍を失っていたことが判明。ドイツに留学できたのは29歳の時だった。ベルリンの音楽学校を優秀な成績で卒業したが、頼れるツテはなく、貧しい生活が続いた。フジコ・ヘミングは活路を求めてオーストリア・ウィーンに移り住み、著名な音楽家に後押しを頼んだ。世界的な指揮者のレナード・バーンスタインがフジコ・ヘミングの演奏を聞いてくれた。才能が認められ、ウィーンでのリサイタルが決定。しかし、直前に風邪で高熱を出し、38歳で両耳の聴力を失った。その後の演奏会の予定は全てキャンセルされた。何も聞こえない時が2年くらい続いたという。治療を続け、左耳の聴力は一部回復したものの、チャンスは遠のいたまま。それでも40歳の時、スウェーデン国籍を取得し、ヨーロッパで頑張る決意を固める。
ピアノ教師として生計を立てながら苦闘する日々。フジコ・ヘミングを慰めたのは動物たちだった。それでも生活は依然として苦しく、中々出口は見えない。母の死をきっかけに平成7年に日本に戻った。すでに60代半ばになっていた。4年後、その壮絶な半生を記録したドキュメンタリー番組が放送される。放送後、番組に寄せられた電話や手紙は1000件以上。67歳で発表したアルバム「奇蹟のカンパネラ」はクラシック界では異例の300万枚近くを売り上げる。コンサートのチケットは即完売するなど“フジコブーム”が巻き起こった。その人気は海外にも広がり、世界の著名なオーケストラと共演するなど各地でコンサートを開いた。90歳を過ぎても精力的に演奏活動を続ける。フジコ・ヘミングはいつしか魂のピアニストと呼ばれるようになった。
不慮の事故で手足の自由を失った詩画作家の星野富弘。昭和21年、現在の群馬・みどり市で生まれた。大学時代は体操選手として活躍、卒業後は中学校の体育教師になった。しかし、2か月後にクラブ活動の指導中に首の骨を折る大怪我をしてしまう。一時は生死の境を彷徨い、病状が安定してからも首から下は全く動かなかった。絶望した星野富弘はその怒りを看病してくれた母にぶつけてしまう。やがて心境に変化が生まれる。文字を書き始めたのは入院2年目。同室の少年が転院する時に寄せ書きを頼まれたのがきっかけだった。入院中、救いとなったのは友人たちからの励ましの手紙。星野富弘は自分で返事を書きたいと文字を書く練習を始める。しかし、紙面いっぱいに文字を書くのは並大抵なことではなかった。余白を埋めたいと思い、枕元にあったお見舞いの花を1輪描いたのが始まりだったという。草花を描き、言葉を添える「詩画」と呼ばれるスタイルが生まれた。33歳の時には知人に勧められ、初めて展覧会を開いた。母への思いや命の尊さを描いた作品は大きな反響を呼んだ。
昭和54年、星野富弘は9年間に及ぶ入院生活を終えて帰宅。その後、初めての詩画集「風の旅 四季抄」を出版した。作品作りを新たに支えるようになったのは退院後に結婚した妻・昌子さん。色を星野富弘が指示し、昌子さんが何度も紙に塗って決めていく。創作活動は1日に1時間~2時間が限度だという。次々と詩画集を発表し、日本だけでなく、ニューヨークなど海外でも作品展を開いた。平成3年には地元に富弘美術館がオープン。これまで700万人以上が訪れ、生きる勇気や希望が湧いてきたという感想が多く寄せられた。星野富弘はありのままの自分を受け止め、作品を生み出し続けた。
ピアニストのフジコ・ヘミングは魂を込めた旋律で運命を切り開いた92年の生涯だった。詩画作家の星野富弘は命の尊さ、命の輝きを描き続けた78年の生涯だった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月27日放送 20:42 - 20:45 NHK総合
#NHK(#NHK)
NHK TECH EXPO 2025で紹介されたNHKの取り組みを紹介。NHKでは2014年から西ノ島プロジェクトを立ち上げ西ノ島の様子をつぶさに記録、NHKスペシャルなどで伝えてきた。定点観測に使った360度カメラは当時はなかったのでカメラマンが自作した。

2025年8月20日放送 15:10 - 16:00 NHK総合
午後LIVE ニュースーン蔵出しセレクション
被爆者・平和運動家 笹森恵子は13歳のときに広島で被爆のちにアメリカにわたり体験を語って核兵器廃絶を訴えた。昭和7年広島で生まれ昭和20年広島女子商業学校に進学。8月6日広島へ原子爆弾が投下された。被爆の数日後両親に連れられ家に戻り顔などに大やけどを負った。昭和28年牧師からアメリカ人を紹介され昭和30年手術のためアメリカへ出発した。1年半にわたり皮膚の移植[…続きを読む]

2025年8月10日放送 23:00 - 0:12 NHK総合
戦争をどう伝えていくか(戦争をどう伝えていくか)
1989年1月、昭和天皇が崩御。昭和が終わり新たな時代が到来した。1990年代に入るとバブル経済が崩壊。「第二の敗戦」ともいわれた。この過度期にNHKは新たな太平洋戦争検証番組を放送。NHKスペシャルで太平洋戦争の意思決定の過程やその結果を詳しく報じた。当時番組を企画した中田整一は、バブル崩壊後、続々と倒産する会社と露頭に迷う失業者を見て「これは戦争のときの[…続きを読む]

2025年8月9日放送 14:30 - 15:30 テレビ朝日
プラチナファミリー(プラチナファミリー 傑作選)
幼少期に落書きをしていたら父に見つかりやめたらなんでやめるんだ?やめるから落書きだなどと言われた話をした、慶應義塾大学に進学したが画家の夢を追い浪人し東京藝術大学に入学した。弟は作曲家の千住明。
千住明さんにお会いするためにやってきたのが東京都港区。千住さんの創作の原点となっているアトリエをお邪魔した。アトリエ内にはいままでのトロフィーなどが飾ってあった。[…続きを読む]

2025年8月5日放送 19:30 - 19:57 NHK総合
クローズアップ現代#5038 戦後80年 ”我が魂は奪われはしない” 福山雅治 響き合う歌と平和
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、同年だけで約7万4000人が命を落とした。爆心地から1km以内にいた人はほぼ即死。3km離れた場所に福山雅治の父、祖母がいた。800mの地点にあったのが山王神社。境内のクスノキは焼き尽くされたが、芽吹き、今では高さ約20mの大木となった。長崎の人々にとって希望、平和の象徴だという。森田博満氏(90)は10歳の時に[…続きを読む]

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