映像の世紀バタフライエフェクト (映像の世紀 バタフライエフェクト)
1920年代、第一次世界大戦の戦火を免れたアメリカは空前の好景気に沸いていた。ニューヨークの中心街には高さ250mを超える摩天楼の建設が進み、巻き起こった大量消費社会は人々の間に旺盛な消費欲を掻き立てる。大量消費は更なる好景気を呼び起こし、人々は初めて生活必需品以外のものを手にできるようになったのだ。そんな繁栄の絶頂で、彗星の如く現れた作家がいた。彼の名はスコット・フィッツジェラルド。ミネソタの田舎町から好景気に湧くニューヨークへ出てきたフィッツジェラルドは、その狂乱ぶりを描いた小説「グレート・ギャッツビー」で一躍ベストセラー作家の仲間入りを果たす。新しい音楽に因んで「ジャズ・エイジ」と呼ばれたこの時代、フィッツジェラルドも欲望に身を任せて妻と共に散財とパーティーの狂乱を謳歌した。
いつ果てるとも知れない空前の好景気。その中心地となっていたのが証券取引所のあるウォール街だった。ちょうどこの頃、銀行が民間の取引仲介会社を設立したことで株取引の専門知識を持たない素人でも株の売り買いができるようになり、大衆にも株取引の門戸が開かれるようになった。その流れを更に加速させたのが、トーマス・エジソンが発明した「市況速報機・ティッカー」。これは株の値動きをリアルタイムで知ることができる機械で、駅やナイトクラブなどあらゆる場所に設置された。ティッカーに表示される株価はみるみるうちに上がり続け、一攫千金を夢見る大衆は株取引に殺到する。中でも人気を集めたのは自動車会社のゼネラル・モーターズや電話会社のAT&Tなど急成長していた企業で、株価は5年で3倍にまで急上昇していった。
潤沢な資金はエンターテインメント業界にも流れ込み、ブロードウェイは黄金時代を迎えた。作曲家のジョージ・ガーシュウィン、黒いビーナスと呼ばれたジョセフィン・ベーカーといったスターが躍動する中、圧倒的な人気を誇ったショーが「ジーグフェルド・フォリーズ」。金に糸目をつけない豪華絢爛なショーはその後のミュージカルの礎を築いた。このショーを作り上げたのが舞台演出家のフローレンツ・ジーグフェルド。数十人の執事を抱えた豪邸で夜毎パーティーを開く豪勢な生活を送っていたジーグフェルドは、自身の生きがいであるショービジネスに凄まじい金をつぎ込んだ。セットに1億円以上の金を投じることもあった彼は、更に豪華なショーを実現するために株取引へとのめり込んでいく。
当時のウォール街には1割の証拠金で10倍の額の株を購入することができる「信用買い」というシステムがあり、大衆の株取引を更に加速させていた。株が上がれば利益が10倍に跳ね上がるものの、下がれば大損となる「信用買い」はリスクの大きな仕組みだったが、株価はどこまでも上がると信じ込んでいた投資家たちにとっては些末な問題だった。そんな株式市場に現れたのが、伝説の相場師と呼ばれた男、ジョセフ・ケネディ。巨大ハリケーンに襲われて暴落したフロリダの不動産を買い漁って巨万の富を手にしたケネディは、まだ法整備が追いついていなかったインサイダー取引などを駆使して株取引のフィールドでも荒稼ぎを繰り返し、悪辣な相場師としてウォール街に名を轟かせていた。
稼いだ金をバラ撒くように使う生活を続けていたフィッツジェラルドは、こうした空前の株取引ブームを冷めた目で眺めていた。床屋や給仕頭に至るまで、あらゆる人々が株に熱中していたニューヨークに嫌気が差したフィッツジェラルドは、環境を変えて新たな小説を執筆するためにフランスへと渡った。
人々の狂乱が続く中、1929年に入るとアメリカ経済は徐々に綻びの兆しを見せはじめる。人々の消費欲は頭打ちとなりつつあり、自動車の販売台数は3割も減少。専門家の中にはアメリカ経済はバブル状態にあると指摘する者もいたが、人々が警告に耳を貸すことはなかった。それは政府にしても同じことで、3月に大統領となったフーバーも楽観的な見方を続けていた。
この頃、ジーグフェルドは17歳歳下の妻、ビリー・バークと共に人生の絶頂を迎えていた。当時まだ発展途上にあったハリウッドに招待されたジーグフェルドは、自身のミュージカルを映画化する権利を譲渡したが、その出来には期待していなかったという。
1929年9月3日、株価は過去最高となる381ドルを記録する。この歴史的な暴騰を目にしたケネディは、全ての株を売却する動きに出た。靴磨きの少年から株価についてアドバイスを受けたケネディは「もはや市場の崩壊は近い」と予測し、手持ちの株を売り抜けたのである。それから2週間ほど経った9月20日、イギリスの大物実業家として知られていたクラレンス・ハトリーが逮捕されたことをきっかけにイギリス経済に不安が広がり、イングランド銀行で金利の引き上げが行われる。この高金利を目当てにアメリカから徐々に資金が流出し、ダウ平均株価も下落。ここに至っても、多くの投資家は一時的なものに過ぎないと判断し、買いを続けていた。しかし、10月16日には再び株価が下落し投資家たちの間に動揺が広がっていく。市場を率いるモルガン商会は声明を発表して不安を払拭しようとしたものの、株価の不気味な下落が留まることはなかった。
そして、1929年10月24日。午前10時の取引開始直後に1人の投資家がゼネラル・モーターズ株に大量の売り注文を入れたことから破滅が始まった。市場は全面売りの展開となり、取引所はパニックに陥った。事態に対処すべく、12時には大手銀行が協力して数千万ドルで株を買い支えると発表。これにより午後には下落が一旦止まったが、エジソンの発明品・ティッカーが思わぬ動きを呼び起こした。予想外の値動きに対処できなくなったティッカーは最新の株価を表示することができなくなり、恐怖に駆られた人々は投げ売りをはじめたのである。10月24日の損失額は実に30億ドルに及び、株の暴落は数日間止まることがなかった。「信用買い」に手を染めていた投資家たちは何倍もの借金を抱え、数え切れないほどの人間が破産。ダウ平均株価は1週間で25%も下落し、実に500億ドルの金額が失われた。
暴落前に全ての株を売り抜けていたケネディが莫大な利益を手にした一方で、ジーグフェルドは暴落の直撃を受けてしまう。300万ドルもの損失を抱えた彼が絶望に沈んでいたのと同様、市井の人々も暴落のダメージを受けていた。業績が悪化した企業は労働者を解雇し、ホームレスとなった1000人以上の人々はセントラル・パークに粗末な小屋を建てて暮らすことになる。栄華を誇ったブロードウェイからも客足が途絶え、もはやジーグフェルドに人生を立て直す余力など残っていなかった。借金を返済するためにハリウッドへと旅立った妻子と別れ、抵当に入った豪邸で貧しい生活を送ることになったジーグフェルドは1932年、失意の内に世を去った。ヨーロッパへと渡っていたフィッツジェラルドは後輩作家のヘミングウェイと時宜を深めていたが、大恐慌を気に両者の関係は逆転していく。行動派の作家としてヘミングウェイが持て囃されていくのと同時にフィッツジェラルドの名は過去のものとなり、44歳の若さで死去した。
1933年にフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任するとジョセフ・ケネディは政府の要職に招かれ、証券取引委員会の委員長となった。悪辣な相場師であったケネディが市場を監視する立場に就任したことには多くの批判が寄せられたが、51歳で政界を引退した後は自身の息子であるジョン・F・ケネディを大統領にすることに腐心するようになる。圧倒的な資金力を武器に全てを手にしたケネディと裏腹に、大恐慌を機に人生が暗転したフィッツジェラルド。彼はかつてエンパイアステートビルの頂上からニューヨークを見下ろし、次のように書き記している。「最も高いビルディングの屋上から見えたのは、緑の大地に四方を囲まれ、その中にごく限られて存在する都市でしかなかった。ニューヨークは結局のところ宇宙などではなく、人々が想像の世界に築き上げてきた光り輝く建造物は脆くも地上に崩れ落ちたのである」と。
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