奄美の森に抱かれて〜日本画家 田中一村〜 奄美の森に抱かれて 日本画家 田中一村
田中一村は50歳の時に船で奄美大島へと渡った。四季を通じて温暖な亜熱帯気候で、美しいサンゴの海が広がり、山には亜熱帯の森が繁茂している。田中一村記念美術館ではおおよそ450点の作品が収蔵されている。一村は国立療養所奄美和光園を紹介され、園長の好意で園内の官舎に住まわせてもらっていた。
奄美に来たばかりの一村にとって和光園のまわりの豊かな自然は画題の宝庫だった。毎日森に入っては亜熱帯の植物や生き物を観察していたという。沖合にぽっかりと浮かぶ島、立神を一村は作品に取り込んでいる。
一村は6歳で一家で東京に移り住む。父親は彫刻家だった。幼い一村は南画を学び、9歳で描いた蛤図は墨の上に顔料を乗せ見事に質感を表している。東京美術学校に入学したが、わずか2か月で辞めている。一村の家族には不幸が続き、両親と3人の弟を相次いで亡くしたという。一家は千葉へ移り住む。「白い花」は青龍社展に入選した。軍鶏もよく描いていたという。
一村は旅に出る。阿蘇から宮崎へ抜けた一村は青島に出会う。姉は奄美へ渡る一村を快く送り出し、生涯にわたって一村の心の支えであり続けた。昭和33年12月、一村は奄美大島へやってきた。岩絵具や絹は高価で一軒家を借りて仕事を探した。大島紬の染色工の仕事を得た。日給は450円、一村は5年間働いて絵を描く資金を貯めようと思ったという。
大部分を山林が占める奄美大島では豊富な海産物が生活の大切な糧となる。一村の目線は南国特有の赤や青の魚へと向けられていった。本土では見たことのない不思議な色の魚やエビに強い興味を示した。
昭和40年に心の支えであった姉と良き理解者であり支援者であった川村幾三さんも亡くなった。一村は2人の恩に報いるためにも、奄美の住人となり納得のいく作品を残さなければならないと覚悟を決めた。
島に生きる人々は海や山に祈りと感謝を捧げあらゆる命を育む自然に畏怖の念を持って暮らしてきた。写真家の濱田康作さんは奄美の風土や信仰、自然に対する精神世界を切り取ってきた。一村は人々の祈りを見つめていくうちに土地の人間でしか到達できない精神世界にたどり着いたと濱田さんは考える。昭和52年、9月11日に一村は一人静かに息を引き取った。生涯一度も展覧会を開くこともなく、ひたむきに奄美と向き合い続けた人生だった。