Mr.サンデー (特集)
日本式スパルタ指導に限界を感じた生原昭宏さん(アイク生原さん)はメジャーの野球を学びたいと1965年に渡米、ドジャースの門を叩いた。傘下のマイナーチームで当時の責任者ピーター・オマリーとはのちの盟友となった。マイナーチームで2年間の研修がスタートしたが仕事は雑用係。研修修了が近づいたある日、出世したピーターは生原さんの仕事ぶりを認め共にドジャースで働くことに。生原さんは英語を学びメジャー野球の情報をインプット。1967年転機が訪れる。読売ジャイアンツがドジャースと合同キャンプを行い、生原さんは通訳を任された。これ以降アメリカから日本のプロ野球をサポートし架け橋となった。4年間未勝利だった山本昌さんは、クビ宣告も同然のアメリカへの野球留学を言い渡され生原さんと出会う。クビ寸前だった生原さんを生原さんだけは見捨てなかたっといい、山本さんは「アイクさんに会っていなかったら200勝投手山本はいない」と語る。生原さんはいつか日本人がメジャーリーグで活躍できる未来を夢見ていたという。当時26歳の長嶋一茂もドジャースへ留学し生原さんに指導を仰いだ。生原さんは長嶋一茂に可能性を見出しており、生原さんの自宅には、当時の長嶋一茂と生原さんを収めた貴重な映像があった。