NHKスペシャル (空海の風景 後編 弘法大師への道)
空海が訪れた中国・長安。東西を結ぶシルクロードの起点として栄えた国際都市で、街には「西遊記」のモデルで知られる玄奘三蔵の銅像も。当時の人口は約100万。うち外国人は1万人ほどとされる。空海は西の門に近い繁華街に居住。
中国・西安にある青龍寺。空海が密教の秘伝を授かったとされる場所。かつて空海が中国から持ち帰った密教だが、今は中国で広められている。空海の師となった恵果はインド直伝の密教を受け継ぐただ1人の中国人僧侶。現在でも14人の僧侶らが密教を再興させようと住み込みで勉強を続けている。
唐から帰国した空海は、真言密教の道場を高野山に置いた。頭上に水を注ぐインド由来の儀式などが今でも行われている。当時の空海は真言密教第8代後継者。同じ頃、最澄は仏教界で存在感を増していた。たまたま紛れ込んでいた密教の書物を桓武天皇が発見し、仏教勢力を抑え込む道具にしようとしたとの逸話も。
中国・長安に入って2年間で密教を修め留学の目的を果たしたとされる空海。勉強の傍ら、町の人々とも交流。その良い評判は今でも街に語り継がれているという。密教を伝授された空海。国家が定めた留学期間は20年だが、規定通り滞在してもそれ以上の成果は見込めないと考え、期間を破って帰国することに。博多港に到着するも、国禁を犯したため功績を口外しなかった時期もあったという。当時の目録には、その罪を「死に値する」と詫びている記述が。
書画を好む嵯峨天皇が即位した頃。空海はその心をつかみ、当時最大の勢力を誇っていた奈良・東大寺の一切を任される職を受諾。かつての有力者・最澄からも教えを請われる存在に。本来、密教は師から弟子へ体ごと伝えるもの。空海は最澄に経典を5年貸与していたが、やがて経典の行方を巡って2人の関係は決裂。
823年、国家鎮護の寺として京都・東寺を授けられた空海。講堂を開き密教の教えを広く人々に広めようとした。曼荼羅が描いてきた宇宙観の立体表現にも初めて挑戦。当時、空海は「新しい思想を伝えるには新しい表現が必要」と考えていた。庶民のため学校を開き、密教で到達した真理などを示そうとした。
和歌山県高野山。かつて空海はここで修行。835年3月21日、空海はここで入滅。62年の生涯を終えた。今も祀られていて、食事が捧げられるなどしている。今も全国で人々を救い続けているという言い伝え。