103歳の証言 国に翻弄された“戦争未亡人”

2026年8月12日放送 23:14 - 23:28 TBS
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京都霊山護国神社で1941年に撮影された写真には戦地に送り出された兵士たちの家族たちが写っており、その女性たちは敗戦後に過酷な運命を歩むこととなった。京都市で暮らす103歳の小西はヘルパーとともにケアハウスから自宅に戻っていた。自宅で小西は結婚当時の写真などを整理していた。婚姻数の推移を紹介。小西は戦時中には産めよ殖やせよと女が子どもを産む機械みたいに言われ、日本はそんな時代にあったのだと伝えた。当時国はより多くの男女を結婚させ子どもを産ませるために結婚十訓という心構えを発表していた。しかし夫婦として過ごす時間も無いまま男たちは召集されていた。小西夫婦は結婚から1年を前に出産し、同日に赤紙が届いていた。小西の子は生後1か月も経たずに亡くなっており、小西は夫婦揃って涙を堪え、互いに何も言うことができなかったなどと明かした。夫・正三はビルマへ出征し、小西は終戦数年後に戦死の知らせを受けた。
小西は戦後に夫・正三の兄夫婦を手伝いながら暮らし、夫を失った悲しみから再婚することはなかった。戦争未亡人となった小西は、当時皆が皆自分のことで精一杯でだれも助けてくれなかったなどと明かした。1945年8月15日、戦争未亡人は約56万人、その多くは20から30代であり、敗戦により偏見の目に晒されてきた。1946年GHQは軍人恩給を一時停止し、子持ちの女性たちは一層厳しい生活を強いられていた。そうした女性たちは全国に100か所以上あった母子寮に身を寄せ合い、そのうちの一つが京都市にあった。祖母・村山種の代から母子寮である野菊荘を守ってきた芹澤施設長は、戦後は30世帯が共同生活していたなどと明かした。野菊荘で暮らしていた中村は戦争で父親を亡くし、裕福であった生活は一変したなどと伝えた。中村は自分たち戦争未亡人が夫を弔うために建てた石碑を紹介した。


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