- 出演者
- 今田耕司 池田伸子 西田敏行
西田敏行が5歳の時に、母に連れられて姉夫婦のもとに養子に行ったエピソードを語った。
オープニング映像。
西田敏行の実母と養母の実家である三瓶家で、家系図を取材。西田敏行の曽祖父は、失踪たという記録があった。西田敏行の祖父・甚吉は、三瓶をサンペイではなくミカメと読むように変えた。甚吉は子宝に恵まれ、西田敏行の実母や養母らが生まれた。西田敏行の親戚が、実母や養母の思い出を語った。西田敏行の養父と養母は、昭和17年に結婚した。
西田敏行が、自分の曽祖父が大酒飲みで失踪したというエピソードを知り、身につまされると語った。
西田敏行の実父・今井泉は駆け落ちし、東京の為替貯金局へ勤務する。今井泉の元同僚らにインタビュー。今井泉は最初の妻を病気で亡くし、郡山の貯金局へ転勤となり、西田敏行の実母である紀惠と出会い、昭和22年に西田敏行が誕生した。
西田敏行が、実父のルーツを探るVTRを見た感想を語った。
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西田敏行の実父が57歳で亡くなり、実母は美容師をしながら息子を育てる。実母が再婚することになり、西田敏行は実母の姉の養子になることになった。西田敏行が、5歳で養子にだされた時のエピソードを語った。
西田敏行が5歳で養子にだされたことについて、おばちゃんちにしばらくいるみたいな感じだったと語った。
敏行が養子へ行った福島・郡山で暮らす西田家。養父の西田辰治から敏行は西田家のルーツを聞いたことがないという。番組で調査したところ、辰治の父で敏行の祖父にあたる英吉、その父で敏行の曽祖父にあたる源左衛門の出生地は鹿児島市清水町だということがわかった。さらに鹿児島県立図書館に保管されている幕末の藩主・島津忠義の記録に西田源左衛門の名前が記載されてあった。役職は火薬と砲弾の製造を行う火薬局を取り仕切る武士だった。さらに安政6年に描かれた絵図には源左衛門の屋敷の場所が描かれてあった。また島津家で篤姫の世話係をしていた池端喜八郎のひ孫は加山雄三、その近所に住む武士・萩原一兵衛のやしゃごは恵俊彰だという。それぞれの屋敷もこの絵図に載っていた。
源左衛門のひ孫で敏行とはまたいとこの関係であることがわかった永田順子さんは源左衛門が暮らした屋敷の場所を伝え聞いていた。明治10年の西南戦争で鹿児島の街は90%が焼失。西田家の屋敷も全焼している。その後の源左衛門の記録は残されておらず、これ以上追跡することはできなかった。しかし、外務省外交史料館に源左衛門の息子で敏行の祖父・英吉の直筆の履歴書が残されてあった。西南戦争に17歳で参加した英吉は翌年に鹿児島県警に就職し、明治13年には外務省へ転じた。
スタジオトーク。西田敏行は「西郷隆盛だけは新政府軍の中でも嫌いになれなかった」と話した。
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昭和28年に西田敏行は今井から西田に性が変わった。養父の西田辰治と養母の西田美代と西田敏行の3人は神社の社務所で暮らし始めた。どんな小学生だったのか当時の同級生に話を聞いた。神社の境内は西田敏行らの遊び場だった。当時の西田敏行はモテていたと思い出話をした。西田辰治は郡山市役所で働いていたが生活はギリギリだった。西田美代は伝染病で娘を亡くしたことがあったので、西田敏行の衛生面には神経質だった。西田辰治は土曜になると西田敏行を連れて町中の映画館に連れて行ってくれたと語った。その影響で西田敏行は小学校の演劇クラブに入った。俳優になりたいと両親に伝えたのは中学生の頃だ。両親は背中を強く押してくれた。高校に入る頃には標準語が喋れるように上京した。そして昭和43年に青年座俳優養成所に入所し役者修行に入った。そして父も上京してきて東京で3人暮らしが始まった。両親は働きながら息子の夢を応援した。そうした状況に西田敏行は焦りを感じていた。西田敏行は自分の強みを見直して舞台「写楽考」やドラマ「池中玄太80キロ」で活躍するようになった。俳優25周年パーティーには西田辰治と西田美代を招いて祝った。ただそれでも両親は西田敏行を心配していたと伝えた。
西田敏行が泣きながら、養父母に感謝していると語った。
2018年大河ドラマ「西郷どん」だが、西田敏行も大河ドラマ「翔ぶが如く」で西郷隆盛役を演じている。今回の取材結果を受けてつながりを知った人達はそれぞれ西田敏行との思い出を語った。また実の母も西田敏行の活動を見守っていた。最近まで娘の白根春美と一緒に暮らしていた。遺品には西田敏行のDVDや写真などを持っていたと伝えた。また西田敏行からの手紙も大切に保管していた。
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