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オープニング映像。
2024年1月1日、石川・七尾市にある和倉温泉 多田屋も「能登半島地震」で被災した。16日、当時150人いたお客さんを返して旅館の片付けをしていくが社長の多田健太郎さんによると不審者が入ってきたこともあったと明かす。館内はどこもかしこも崩れている状態。2週間が経過したがまだ被害の全容は把握していないという。若女将の弥生さんは当時の動きについて覚えていないと明かした。弥生さんは18年前に多田屋に嫁いだ。能登には昔から続く風習として嫁ぎ先の仏間に飾られた花嫁のれんをくぐって嫁入りするしきたりが残されている。弥生さんは会社員と教師の両親を持つ3人きょうだいの長女で看護師として勤務していて、夫とは大学時代のサークルで出会い、能登に来てほしいと言われて心が動いたという。そして女将修行が始まった。何もかもが0からのスタートだった。多田屋に嫁いで1年、若女将としてお披露目の日が訪れ部屋には弥生さんの両親と弟が待っていた。弥生さんは挨拶を行ったりした後感極まって涙した。
能登半島地震によって若女将お披露目の日で使われた部屋も被害を受けており再開について健太郎さんは全然分からない。再開は3年以内にできると思うがフルオープンがいつかということはあるなど話した。27日、旅館にはどうしても泊まりたいなどの問い合わせの電話があったり、リピーターのお客様にキャンセルのお願いをしたりしたという。また旅館としては応援セットみたいな商品を作ったという。これらの商品は200万円を売り上げたという。食事は洗い物が出来ないため使い捨てやカップ麺だという。手伝う人の中には弥生さんたちの子どもたちの姿もあった。
震災からおよそ29日、構造設計の専門家を友人に紹介してもらいみてもらう。壁が浮いている建物も外から確認してんもらうと杭が相当頑張ってくれたなど話す。健太郎さんは考えとしてサービスから作り直すという決断もあり、多田屋スタッフだけだと既存の考えに引っ張られるため様々な業種を呼ぶなど少しずつスタッフにも語っていた。一方会長の邦彦さんは思い出の部屋などのを見てショックを受けていた。邦彦さんは23歳のときに佐永子さんと結婚したが先代が結婚後間もなく他界し若くして経営を担い、リゾート型旅館にしていった。そのため健太郎さんが「自分のものも作りたい」という気持ちがすごくわかるが葛藤があるなど話した。父と子の確執は過去取材している中でも多々みられた。
健太郎さんは和倉温泉の若手リーダーとなっており、2月28日お祭り会館で開かられたワーキング委員会で会長を勤めていた。健太郎さんたちは温泉旅館の復活だけではなく和倉の街全体を蘇らせる構想をもっている。その思いは弥生さんを感じており決まったことに従う感じであるなど話した。
地震から1ヶ月後、雇用調整助成金を受け取ることが決まり、スタッフは自宅待機となっていた。弥生さんはホテル内の備品を集めて不安な気持ちを抑えていた。3月多田屋再生の動きがない状況に邦彦さんは苛立っていた。邦彦さんは旅館について「終わったら人生を終わる」という感覚で、終わらないがあんまりかんでないから寂しいなという部分があると話した。そんな邦彦さんは前立腺がんの腫瘍マーカーの数値が高く診察した所多発性骨髄腫と判明。先生には生きる年数の選択肢を上げられ10年生きようとすれば骨髄移植するしかないと言われ骨髄移植は嫌でさらに病院も金沢へ移動する必要があり拒否したという。
3月25日、健太郎さんは多田屋は新生の道を選ぶ。プレゼン資料を作る健太郎さん。そして事務所には2ヶ月ぶりの再開で喜ぶスタッフの姿があった。
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3月25日多田屋のスタッフを全員集め健太郎さんが多田屋の未来像についてプレゼンを行った。健太郎さんが掲げた新生多田屋は高級温泉旅館との決別で部屋数を半分位減らし大浴場を縮小、半分をオフィスとして貸し出すと能登の魅力を伝えるというものだった。弥生さんも今後旅館業だけではと健太郎さん同じ考えを持っていた。一方で邦彦さん達家族達にとっては想定外のものだった。
3月21日多田邦彦さんは輪島市への募金を行い朝市の火災現場を見に行った。邦彦さんは孫、子の時代に観光として残れるように今作らないとだめと話した。震災から4カ月多田屋では一部再開させる準備進めていた。。弥生さんも新たなスタートとして看護師として働き始めていた。
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