- 出演者
- 杉浦友紀 今田耕司 三浦大輔
今回のゲストは元横浜DeNAベイスターズ監督の三浦大輔。
オープニング映像。
三浦大輔の両親は大阪市で花屋を営んでいるという。一方で住まいがあるのは奈良県の大垣町。そこで三浦大輔の父の三浦克之に三浦家のルーツについて話を聞いた。さらに公民館で三浦家の祖先についても調査し、祖先は3000坪の土地を保有していたことがわかった。三浦家の人たちを地域をまとめあげてくらしていたと思われるという。そうした中で明治42年に三浦大輔の祖父の三浦勝義が誕生した。このころに三浦家は田んぼを売却するなど経済的に苦しい状況になったという。
三浦大輔の祖父の三浦勝義は花屋に奉公に出て働くことになり、そこで花の配達先で知り合った正ゑと結婚し、昭和14年に三浦大輔の父の三浦克之が誕生したという。この頃に三浦勝義は大阪に花屋を開店したという。商売は順調だったが、昭和16年に三浦勝義は陸軍に招集されて陸軍兵長として戦地に赴いたという。三浦勝義は戦地から帰還することができたが、花屋は空襲で焼けてしまったので、大阪天王寺区に花屋を開店し再起を図ったという。
三浦克之は家計を助けるために昼は工事現場で働き、夜は地元の定時制高校に通ったという。この頃、三浦克之は柔道に夢中になっていたという。そして三浦克之は全国青年大会に出るまでになったという。一方で家業を継ぐために両親の花屋で働くようになり、生け花も学んだという。三浦大輔の母の三浦省子とはこの生け花を通じて出会ったのだという。スタジオでは三浦大輔が「全然知らないことばかりだった」と語った。
祖父の藤本義晴は家族思いの人物で国鉄職員だったという。藤本義晴は16歳で国鉄に入り、真面目な働きぶりで昇進を重ねて、37歳の若さで桜ノ宮駅の助役になっている。しかし翌月に大阪大空襲があり、乗客や鉄道のために力を尽くしたという。
家族思いな藤本義晴の元で育ったのが、三浦大輔の母の省子だったという。そこで省子の高校時代の同級生である吉澤玲子さんと松田佐知子さんに学生時代の省子について話を聞いた。高校卒業後、省子は仕事の傍らで華道教室に通うようになった。そこに手伝うようにやってきたのが、三浦克之だったという。そして昭和48年に2人は結婚した。その後、長男の大輔が誕生したという。
結婚後、三浦克之と三浦省子は花屋のあった日の出市場近くで暮らすようになったという。2人は大輔をよく市場に連れて行ったという。三浦克之はプロ野球ファンだったこともあり、市場の裏でよくキャッチボールをしていたという。
三浦大輔が小学校にあがるころに一家は奈良県橿原市に住まいを移すことになった。そして大輔は少年野球チームに入団したという。当時の三浦大輔は一般的な球速だったが制球力は当時からあったという。三浦大輔は野球に打ち込み、1989年に大和高田市立高田商業高等学校に入学し、そこから遊び回るようになったが、仲間たちの思いがあり、野球部に戻り徐々に変わっていったという。
三浦大輔は高校3年生の夏に全国高校野球奈良大会に出場し、決勝で天理を相手に好投したが結果は1-3で惜敗した。しかしスカウトの目に止まり、横浜大洋ホエールズから指名を受けてプロ野球選手になった。
プロ野球選手になった三浦大輔は繊細なコントロールとぶれない芯の強さで横浜のエースになっていった。34歳の頃に阪神タイガースからオファーがあったが横浜への残留を決意したという。そして平成28年に引退し、横浜一筋を貫いたという。父の三浦克之の華道の作品の中には息子と野球の特訓をした日々が残されたものがあったと伝えた。また自宅からは三浦大輔が野球をやめそうになった際に学校に提出した反省文の下書きが見つかった。
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