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2024年2月にボストン交響楽団は88歳で亡くなった指揮者小澤征爾さんの死を悼んだ。小澤征爾は長年クラシック音楽の第一線で活躍してきたが小澤さんが生涯力を入れてきたのは若手音楽家を育てること。晩年まで病と闘いながらも指導を辞めることはなかった。11月には小澤さんたちの教え子が集結し追悼コンサートが行われた。今回小澤征爾の88年の生涯をみつめる。
東洋のベニスといわれる中国・蘇州。11月に湖畔に立つ音楽ホールに小澤さんの教え子たちが集まっていた。3日後に控えた追悼コンサートに受けてリハーサルが始まっていた。その小澤さんの教え子の中国人指揮者のユロさんは22歳で世界三大オーケストラの一つに招かれるなど中国を代表する若手指揮者。追悼の曲に選んだのはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。ユさんが小澤さんから最初に教わった曲だという。小澤さんとの出会いは音楽大学を目指していた15歳のとき。小澤さんが北京の音楽大学に指導に来ると聞きつけて大学の構内に潜入したという。それから4年後に才能を見出されたユさんは直接指導をうけることに。月に一度、日本に招かれて他の若手指揮者とともに基礎から叩き込まれた。ユさんが紹介したのは小澤さんに最初に指導してもらったという「運命」の楽譜。NHKに遺されてていた小澤さんお映像は若い演奏家たちに繰り返しあることの大切さを伝えていた。周りの音を聴くこと。周囲の音を聴くことで多様性が生まれ重要なことだと語っていた。
小澤さんの教えをユさんは今回の追悼コンサートでも実践しようとしていた。小澤さんの教えを今を大切にしている演奏家も。中国トップレベルの楽団で活躍してきたヴァイオリン奏者の王歓さん。王さんは小澤さんが開いた小澤征爾音楽塾に学生時代から何度も兄弟で参加してきたという。音楽塾では、アジアから選抜された若者たちが日本に招かれて小澤さんたちの元で1ヶ月間学ぶ。参加費から渡航費まで無料で、これまでに日本や中国、韓国から2000人が指導を受けた。小澤さんがアジアの若者たちの育成に情熱を注いだ背景には自身の経験があった。24歳で本場のクラシックに挑みたいと日本を離れた小澤さんは貨物船に無料で乗せてもらい1台のバイクと少しの着替えを手にヨーロッパに向かった。フランスに到着してすぐに参加した指揮者のコンクールで優勝をしたが、日本人にクラシック音楽がわかるのかという先見にさらされた。
逆境の中でも努力を重ねた結果ヘルベルト・フォン・カラヤンやレナード・バーンスタインに才能を見出され、世界のマエストロに上り詰めた。人に助けてもらい夢を叶え学んだことを若い音楽家に伝えたいと考えた。今回の追悼コンサートには小澤さんが愛した中国の曲も選ばれた。元々は中国の伝統楽器の二胡で弾く二泉映月。小澤さんがこの曲に感動しオーケストラに編曲した作品をかつて中国でも指揮した。中国の演奏家たちにとってもこの曲は小澤さんのために弾きたかった曲で小澤さんには中国との深い縁がある。生まれは1935年に旧満州で歯科医だった父と母、2人の兄と弟の6人家族だった。兄の俊夫さんは父は常々民族や国を超えて協調すべきだと口にしていたという。日中戦争が勃発し日本軍は中国各地に侵攻。戦況が泥沼化する中で小澤さんは5歳のときに日本に帰国した。戦後には小澤家では再び中国を訪れることが目標に。弟の幹雄さんは、日中の国交が途絶える中で指揮者になった小澤さんに日中の架け橋になることを期待したという。
しかし父は中国の地を再び訪れることなく亡くなった。父の死から8年後、小澤さんは中国を訪れた。母や兄弟と一緒に訪ねたのは幼少期に過ごした北京の家。この時、小澤さんにやりたいことがあったという。それは父の願いでもあった中国とのオーケストラとの公演。譜面台には父の写真が置かれていた。その歓迎会のスピーチでその胸の内を明かしていたという。音楽を通して日本人と中国人の心をつなぎたいと指揮台に立った。しかしリハーサルは難航し、中国の楽団員たちはクラシック音楽を弾き慣れていなかったという。その理由は10年続いた文化大革命。西洋のクラシック音楽は禁じられ楽団員たちは革命歌をひたすら演奏していたという。10年間音楽の自由を奪われていた楽団員たちと小澤征爾の共演。その衝撃を語るのは下祖善さん。文化大革命の前までオーケストラで指揮を取っていたというが、小澤さんが北京に来るまでに代理で楽団を指揮していた。眼の前に現れた小澤さんを見て、楽団員の目の色が変化したという。文化大革命で、一度は失われた中国のクラシック音楽。小澤さんの手によって再び息を吹きかえした。
この初公演で小澤さんは中国の曲も演奏したいとリクエストした。それが二泉映月。今回の取材で当時の音源が大切に保管されているという。音楽家を育てる上で小澤さんが大切にしたことがある。日本各地の村や町へ演奏する旅を通して音楽を届けることはどいうことか学生たちに考えてもらう。事前の宣伝は一切なし。学校の体育館や寺が会場。噂を聞きつけてやってきた人の中には普段はクラシック音楽を聴かない人たちも少なくはない。音響設備のない会場でも最高の音楽を届けようと小澤さんは学生とともにステージにあがった。この旅に大学生の時に参加した山本翔平さん。観衆が感動して泣いている人もいて人に与える影響をみたという。
山本さんは今はプロのヴァイオリン奏者として活躍している。小澤さんの教えを胸に地方の町を巡る旅を10年以上続けてきた。追悼コンサートまで後二日。日本から駆けつけたのはヴァイオリン奏者の豊嶋泰嗣さん。音楽大学の先輩の小澤さんと学生時代に出会い30年以上共演してきた。小澤さんが世界最高レベルの音楽を奏でようと仲間と立ち上げたサイトウ・キネン・オーケストラ。豊嶋さんは、コンサートマスターを任されて共に音楽を追求してきた。今回中国で小澤さんの教え子が集まると聞いて仕事の合間をぬって駆けつけた。小澤さんの音楽塾で出会った教え子たちと10年ぶりの再会だという。追悼コンサート当日には、最後のリハーサルにたちあっていたのは小澤さんの娘の征良さん。後進の育成に情熱を注ぐ小澤さんの活動を支えてきた。会場となった北京中心部の歌劇場。追悼コンサートには音楽を学ぶ学生らが招待された。小澤さんの中国初公演を共にした下さんも駆けつけた。
そして演奏会がスタート。阿炳の二泉映月が演奏された。ヴァイオリン奏者の靳哲さんは、1994年に小澤さんと共演した。旧満州の主要都市だった瀋陽に公共楽団があると知った小澤さんは是非共演したいと申し出たという。与えられた期間は4日間で設立間もないこの楽団と小澤さんは猛練習を重ねた。迎えた本番では靳さんは堂々たる演奏で小澤さんのタクトに答えたという。靳さんはこの時の感動を日記に残していた。演奏会ではマスネのタイスの瞑想曲が演奏されていた。さらに小澤さんの娘の征良さんからユロさんに楽譜が託される一幕も。生前愛用していた運命の楽譜。その演奏が行われた。