- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 追永勇次 吉田利雄 安島雄一郎
自動運転や豪雨予測も現実となりつつある。新時代の技術を可能にしているのはスーパーコンピューター。30年前、不況に陥った日本はスーパーコンピューターの開発競争でも凋落していった。このまま沈むわけにはいかないと、世界一奪還に挑む国家プロジェクトが始動した。
- キーワード
- 京
オープニング映像。
今回はスーパーコンピューター「京」の開発物語。日本は独自に開発するのは無理だと言われたコンピューターを国産で開発し世界を驚かせた。開発陣を率いたのが富士通の池田敏雄さん。最先端のスピードを競うスーパーコンピューターで日本は躍進。しかし急速に凋落しイギリスやドイツ、中国などに抜かれた。スパコン開発は国の産業の競争力に関わる国家プロジェクト。この危機に立ち向かったのが池田敏雄の後輩たちだった。
2002年、バブル崩壊から10年。コンピューターメーカー富士通は苦境に見舞われていた。世界的IT不況の中、2万人を削減するリストラが断行された。このころ社内で縮小に追い込まれていた部隊があった。スーパーコンピューター専用機の開発部隊。富士通でスパコン開発の先陣を切ったのはミスターコンピューターと呼ばれた池田敏雄だった。池田はこの先、スパコンが技術開発のカギを握る未来を予見していた。以後日本メーカーはスパコンで躍進したがその開発力は米国の脅威となった。そして90年代、米国は高い関税で日本のスパコンを市場から締め出した。一方不況に陥った日本のメーカーは巨額の開発費に耐えられず事業を縮小していった。このとき富士通で研究の継続を訴える者たちがいた。その一人、奥田基。奥田の専門はスパコンを駆使してのシミュレーション。この時期ある映像を目にしていた。車が衝突した際どんなふうに壊れるかを計算した映像。10年で1000倍進化するといわれたスパコンがついに実験に匹敵する精度に近づいていた。まもなくスパコンが技術開発を根こそぎ変えると直感した。
2003年、覇権を握る米国がさらに次世代のスパコンを目指す国家プロジェクトを始動させた。民間企業だけでは作れない圧倒的なスパコンで他国を一気に引き離す狙い。競争力の根幹を失う危機に日本も追うように国家プロジェクトを本格始動させた。激論の末、富士通も参加。しかしスパコン事業を縮小してからすでに7年が過ぎていた。開発を率いる木村康則の最大の懸案は世界のトップと戦える設計部隊をもう一度作れるかどうか。新たな開発チームは若手が中心。経験の浅い彼らを導ける歴戦のエンジニアがどうしても必要だった。ベテランたちの意見が一致した切り札がいた。それが追永勇次だった、追永は北海道大学出身。ミスターコンピューター池田敏雄が率いたチームで入社わずか2年目にして中心回路の設計リーダーに抜てきされた。入社までコンピューターを知らなかったにもかかわらず先人が残した回路図を読み込みその原理を習得。頓挫することも多い開発で担当した全てのマシンを成功に導いた追永は社内で伝説的な存在だった。しかし開発を率いてほしいという頼みを追永は固辞した。このとき50も半ば。自分が出る幕ではないその一点張りだった。スパコン開発は国家の覇権がかかる一方で「金食い虫」とも呼ばれてきた。失敗すれば損失は数百億。責任者はその重圧にさらされることになる。世界一へのプロジェクトは切り札のいないまま見切り発車で始まった。
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- 北海道大学
スパコン「京」の一部をスタジオで紹介。CPUの中身が凄い。中にはナノ単位の回路がぎっしりと詰まっている。1ナノは1ミリの100万分の1。このCPUを8万個以上を繋げて同時に動かして計算させる。どんな廃線で繋げばデータが瞬時に走って渋滞しないか。これを考えるのが難題だった。目指した計算スピードは1秒間に1京回。
2006年9月、世界一に向けた設計が始まっていた。頭脳に当たるCPUの開発には100人を超えるエンジニアが投じられる。1%の性能にしのぎを削る世界でこのとき示された目標は200%アップ。最も難しい回路を任せられた7年目の吉田利雄は目標の高さにあ然とした。吉田が率いる検討会の名は目が覚めるアイデアが出るよう「ストロングコーヒー」と名付けた。常識破りのひらめきを求めひたすら考え続ける。性能アップに加え消費電力を減らすことも求められていた。電力半分というのも途方もないハードルだった。そのころベテランたちは追永の説得を続けていた。このプロジェクトが失敗すれば受け継いできたスパコンの技術が消えてしまうと居酒屋に呼び出しては3人がかりで口説き続けた。追永は迷っていた。入社以来、出世に背を向け不器用に生きてきた。失敗を恐れ多くの同僚が設計の現場を去って行った。その中でひときわ重圧がのしかかるスパコン設計という損な役回りを引き受けてきた。
このころ開発部門の一つで激しい議論が巻き起こっていた。開発トップの木村は一人の部下に困惑していた。安島雄一郎33歳、研究所でも名の知れた変わり者だった。安島が考えていたのはCPUとCPUのつなぎ方、インターコネクト。8万個のCPUをどんな経路でつなぎ合わせればデータを最も効率よく流せるかは最大の課題の一つだった。安島はCPU同士を立体的につなぐ難解なアイデアを提案。輪のようにつなぐという頭文字から「Tofu トーフ」というかわいらしい名前をつけていた。しかし中身はすさまじい歯応えだった。幼い頃、ゲームがきっかけでコンピューターにのめり込んだ。以来夢中で学んできた。変わり者と言われ理解されないことには慣れていた。上司の木村は安島の才能を買っていた。だがあの「Tofu トーフ」に本当にかけて良いのか、安島を導けるすご腕がどうしても必要だった。木村は追永にマシン全体の開発を統括してくれと頼んだ。追永はこれが最後の開発と決めていた。次の世代に自分が学んだ全てを伝える。まもなく周囲が恐れおののく論戦が開始された。かたや「Tofu」と名付けた難解なアイデアを主張する安島。対するは歴戦のスーパーコンピューター設計者、追永。周囲は「怪獣同士の対決」と呼んだ。20歳差の2人の議論は白熱、激論の中で追永はデータの渋滞が起きる場所をぴしりと指摘。急所を突かれた安島だが「この人とは、技術で話せる」と思った。
スタジオに京の開発にあたった追永勇次、吉田利雄、安島雄一郎が登場した。追永勇次は「プロジェクトを4回任されたが、本当に大変だった。だから関わりたくない気持ちがあった」などと話した。吉田利雄は「もう重圧はすごかった。夢の中でうなされ飛び起きるなどしばしばあった」などと話した。
2007年、開発の先行きは依然として霧の中。400人ほどのチームを見渡す追永の方法は独特なものだった。あらゆる部署を回って議論を交わし書類なしで要点をつかんでいく。CPUをつなぐインターコネクト担当の安島は悩んでいた。ここまでさまざまな知見を取り入れながら磨き上げてきたアイデア「Tofu」。しかし追永はさらに上を要求してくる。アイデアを振り絞っては議論を交わしていたある日、突然追永が言った。「次の変更が最後だ」。次回安島が出すアイデアを追永は自らの責任で採用する。猛然と考えていた週末、安島は新婚の妻と買い物に出かけた。そのときCPUをつなぐ画期的なアイデアが湧いた。エスカレーターを上り下りするうち思いは確信に変わった。思わず妻の恵美にまくしたてた。安島のアイデアは12個のCPUを3次元的につなぎかたまりにする。そのかたまり同士をさらに3次元でつなぐ。名付けて「6次元」。どこかが渋滞してもデータが自由に迂回できる画期的なアイデアだった。説明を聞いた追永は瞬時にゴーサインを出した。
同じ頃、性能3倍、電力半減を目指すCPU開発部隊も奮闘を続けていた。最難関の回路を担当する吉田。設計案を固める期限が残り1か月に迫っても常識からジャンプするアイデアが打ち出せない。そんな吉田を見ていた先輩の浅川岳夫。かけた言葉はひと言「できるよ」だった。先輩たちもこの重圧を超えてきた。そう自分を奮い立たせた。吉田にある回路のアイデアが降ってきたのは自宅でまどろんでいた夜。その回路を付け足すと計算データを記憶装置から圧倒的に効率よく取り出せる。そうなれば計算速度は跳ね上がり消費電力は下げられる。常識破りのアイデアだった。翌朝、興奮してチームに伝えると現場は沸き立った。開発から3年、ついにスパコンの頭脳が完成。2010年9月設置開始。直前には政府の事業仕分けの対象にも挙がったが開発の継続が認められた。宮城・栗原のケーブル工場は東日本大震災に見舞われた。それでも2週間で出荷を再開し納期どおりに仕上げてくれた。世界最速、1秒間に1京回の計算を目指すマシンは「京」と名付けられた。2011年6月7日、途中段階での性能テスト。結果は1秒間に8000兆回でいきなり世界記録を更新。そしてフルスペックで挑んだ2011年10月8日、「京」は29時間以上止まらずに方程式を解き終えた。目標の1秒に1京回を達成。米国、中国をぶっちぎりで上回るスピードをたたき出した。安島にはうれしいことがあった。追永が独特の言い方で褒めてくれたという。学会発表に2人は仲良く出席。激しい議論を交わした2人はそろって笑顔を見せた。常識破りの回路を生み出した吉田。400人のメンバーは世界一達成に歓声を上げた。の中で後輩にバトンを渡し終えた追永は最後列で控えめなガッツポーズを作っていた。
やってよかったですか?と聞かれ追永勇次は「よかった。うまくいったからね。ただそれだけですよ」などと話した。アイデアが出てこないことはないんですか?と聞かれ吉田利雄は「ない」と答えた。
2012年の運用開始以降「京」は1万人以上の研究者に活用された。車の走行性能を上げるための空力シミュレーション。地震が起きた際の都市被害のシミュレーション。日本の科学と産業の発展を支え続けた。日本のスパコンを守るため追永を説得したベテランたちは「京」の開発後、定年を迎え仲良く引退を祝った。追永勇次の日課は散歩。2020年「京」の後継機「富岳」が再び計算速度世界一に輝いた。大きな進化を生み出したのは吉田や安島など「京」の開発で鍛えた若手たちだった。安島の「Tofu」は数々の賞を受賞。大事なアドバイスをくれた妻、恵美さんと共に祝った。今は穏やかに話し合いながら開発を引っ張っている。若手を育てる立場になった吉田さんはこんなことを思うようになった「うちの上の人たちがうまいのは、現場が自分たちでやったと思わせるリーダーの手のひらの上でやっていたのかもしれない」などと話した。
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