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東京・原宿にある太田記念美術館は江戸文化の美の極みである浮世絵を1万5千点収容する美術館。今回は喜多川歌麿の作品を紹介してもらった。今日の一枚は婦女人相十品 文読む女。背景はなく少ない色数でみせる麗しさ。か細いがゆるぎない線が艶っぽく、眉毛がなくお歯黒wしているのは既婚者の証。ウタマロが初めて描いたさりげない仕草にこそ浮世絵にはない、等身大の美があった。そうした女を描かせたのは蔦屋重三郎。
1750年に吉原で生まれた蔦重は7歳のときに引手茶屋の営む家の養子に。23歳の頃に貸本屋をはじめ、やがて出版に乗り出す。目をつけたのは吉原遊廓のガイドブックの吉原細見。それまでより見やすく、遊女や店のランクなどが人目でわかるように工夫を凝らし大ヒット。勢いそのままに蔦重は当時流行していた狂歌の世界へ。歌会で築いた人脈を活かして一流の戯作者や絵師に仕事を依頼。絵入りの娯楽小説を次々と出版し、頭角を表していく。現在の東京・中央区日本橋大伝馬町には後世の人々が江戸のメディア王と称えた蔦重は耕書堂を開く。その頃歌麿は蔦重の家で居候を始めていた。
歌麿を知る一枚は遊女たちと戯れている一枚が。歌麿の出自はよくわかっていないが蔦重よりも少し年下と言われ、狩野派の流れをくむ絵師のもとで絵を学んでいた。その後北川豊章の名でデビューするも主に描いていたのは版本の挿絵。一枚ものも描いたが、低価格の細判に過ぎなかった。
蔦重は歌麿の絵に惚れこみ、豊章は歌麿と名を改めた。蔦重はその歌麿に細判ではなく、より費用のかかる大判を描かせた。しかも2枚続きのものまで。さらに美人画を手掛けると、吉原の女たちのさりげない姿を描いてみせた。
喜多川歌麿が描いた潮干のつとは36人の狂歌師たちが詠んだ歌に歌麿が36種類の貝を描いた。その凄さは写実力だけでなく春画でもその絵力に蔦重は惚れ込んだ。
しかし寛政の改革で戯作や浮世絵は風紀を乱すとし、表現が規制されてしまう。蔦重が刊行した山東京伝の仕懸文庫は発禁に。京伝は手錠の刑に。蔦重自身も財産の半分を没収されてしまう。表現は規制され、豪華な衣装の美人画もダメと言う中、描いたのは誰もみたことのない美人画。当時美人画で不動の人気だったのは鳥居清長。絢爛たる衣装をまとったすらりとした八頭身の女たち。セレブなファッションカタログのような憧れの全身像を描いていた。そんな世の中に楔を打つように、蔦重と歌麿は女たちの上半身を描いた美人大首絵を作ったが、市政の女たちの佇まいを描いた。夫のいる女が読んでいるのは手紙。
婦女人相十品 文読む女のモチーフは女が手紙を持っているだけという実にシンプル。またもう一つの美人大首絵の富本豊ひなは若い浄瑠璃の名取が美しい装飾紙を手にしている。顔は髪の色をそのまま使っているがそれでいて豊かな表情を生んでいる。身の丈にあった日々の喜怒哀楽にこそ浮世の物語があり、憧れではなく共感がそこに。
歌撰恋之部 物思恋の絵の女性の顔を福笑いで高島が配置した。その位置などが少し変化するだけで感情は変幻自在。この遊びについて安村敏信さんはかつて美術館で行ったワークショップだという。美人大首絵は江戸の町で大ヒット。その秘密はまだ他にも。
動き出す浮世絵展 TOKYOが開催中。江戸っ子達の娯楽であった浮世絵が現代の最新技術で新しいエンターテイメントへ。美人大首絵のもう一つの傑作は品 ポッピンを吹く娘。ポッピンは当時珍しかった舶来のガラス製玩具。贅沢品だったが庶民には手が届かない代物。蔦重が世間に流行にのっとって描かせたもの。しかし歌麿は次第に蔦重から距離を置くようになった。その理由は定かではない。
蔦重が次に売出したのは謎の絵師東洲斎写楽。大判の役者大首絵をひっさげて、背景に平ずりを施すなど力を入れるもいまいちだったという。また美しいおやまのはずが、美化せず見た目そのままを描いたために役者筋からの評判は悪かったという。一方、当代随一の人気絵師になった歌麿は多くの版元とともに様々な美人画を描いた。蔦重は新しい才能がいないかとその中に葛飾北斎が。しかし蔦重はその最中病気で亡くなってしまった。その3年後に美人大首絵は禁止に。
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