- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 松島仁
オープニング映像。
佐藤二朗は幼少期、父親といっしょに富士山を望みながら、「なんでもいいから日本一になれ」と言われたのを覚えているという。そんな富士山だが、かつて日本を代表する山と位置づけられたのは比叡山だった。富士山は辺境の山と認識される程度だったという。
- キーワード
- 富士山
富士山本宮浅間大社の境内には枝垂れ桜があり、武田信玄が寄進した。また、足利尊氏、豊臣秀吉、徳川家康ら歴史上の人物たちが土地、建物を納めた。信玄は北条氏康に戦で勝利することを祈念していたという。また、1193年、源頼朝は3万人以上の武士を動員し、富士山にほど近い場所で巻狩を実施。鎌倉幕府の権威を貴族たちに示す思惑があったとされる。ただ、平安時代後期、名所を詠んだ和歌の史料を紐解くと、貴族たちは都に近い近畿の山を多く詠んでいた。富士山は比較的少なく、畿内から離れた異教の山と認識されていたと推測される。頼朝は権威を委ねるのに値すると富士山に着目した可能性がある。
室町幕府の第6代将軍、足利義教は公家や大名を引き連れ、富士を遊覧するイベントを催した。富士山を詠んだ歌も遺されていて、松島仁氏は「武家の山だったが、富士遊覧を行うことで公家社会にまで浸透した」と話す。
富士山はかつて噴火を繰り返す活火山で、平安時代の貴族たちは恋で胸を焦がすことになぞらえて歌を詠んでいた。戦国時代、武士たちは戦勝を祈願し、富士山の形を模した兜、馬具がある。江戸時代、庶民たちの間で富士登山の人気が高まった。
富士山の麓にある無戸室浅間神社には洞窟が残っていて、江戸時代、参拝者は登山前に身を清めたとされる。当時、富士山信仰の祈りの歌を記した史料も遺されている。谷釜尋徳教授によると、富士登山を行ってご利益を祈願する登拝、富士山を遠望する遙拝という信仰の方法もあった。
富士山を登る上で強靭な足腰は欠かせず、江戸から行くとなると往復で1週間以上を要した。そのため、登山したくても登山できない人が多かったなか、ミニチュアの富士山”富士塚”を作って登ったという。都内に音羽富士という富士塚があり、富士山の溶岩を持ち出したとされる(現在、溶岩を持ち出すことは禁止)。結果として、庶民たちは富士山をより身近に感じたという。幕末、江戸幕府はアメリカ大統領に絵画を贈ったが、そこにも富士山が描かれていた。
富士山というワードは学校の教科書にも登場し、国民の愛国心養成に貢献した。明治時代、欧米諸国と渡り合うには天皇を中心に国を1つにまとめる必要があり、富士山が大いに利用されることとなった。日中戦争が勃発した昭和、国民の戦意を高揚させるシンボルとして富士山が担ぎ上げられた。1941年、亀井文夫という映画監督が富士山に関する映画を手掛けた後、特高警察によって逮捕された。科学的見地から富士山を解説した内容で、特高は富士山の神聖性を侵すものと判断したのかもしれない。太平洋戦争で敗色濃厚となるなか、富士山が日本を勝利に導くという悪しき考えがメディアを通して広まってしまう。
戦後、富士山は観光資源として国内外の人々から愛され、世界文化遺産にも登録された。ちなみにアメリカ、ブラジルにも富士山と呼ばれるものがあり、日本からの移住者にとっては心の支えになったという。松島仁氏は富士山について、「鑑賞、信仰の対象だけでなく、人々の希望、願望、欲望を背負わされた稀有な存在」と語った。富士山の歴史から、日本人がどう生きてきたが分かるという。
「歴史探偵」の次回予告。