- 出演者
- 佐藤二朗 河合敦 片山千恵子
オープニング映像。
小牧・長久手の戦いに際して、徳川家康、織田信雄は長宗我部元親に出陣を要請していた。一方、秀吉は長宗我部を警戒し、有力大名を防衛に割かざるを得なかった。また、秀吉は毛利氏と和睦に向けた交渉を繰り返していたが、毛利氏からすれば、提示された条件は無理難題ばかり。交渉を有利に進めるなら、秀吉が小牧・長久手の戦いで敗戦してくれた方が毛利氏にとって都合がいい。毛利氏が四国に軍勢を差し向けないと見越した長宗我部元親は毛利氏とつながりがあった河野氏と交渉を重ね、和睦したとみられる。
織田信長と長宗我部元親の関係は良好で、元親の四国制覇に向けた動きは信長から承諾を受けていた。だが、信長は領土の一部の返還を要求し、元親は拒絶。信長は四国侵攻を決意する。両者の仲介役を務めていた明智光秀からすれば面目は丸潰れで、信長に謀反を起こすことになったという説が唱えられている。そして、長宗我部元親は一代で四国制覇を成し遂げるが、秀吉に対して降伏を余儀なくされた。
長宗我部元親は高知・本山町にそびえる白髪山の檜でできた柱、皮を豊臣秀吉に献上していた。秀吉は大阪城をはじめ、巨大な建造物の建設に着手していて、良質な木材は喉から手が出るほど欲しかったとされる。高知大学による調査の結果、白髪山の檜は一般的な檜よりも強度があり、良質といえるという。山の土壌を分析したところ、マグネシウム、ニッケルが多量に含まれていた。どちらも植物には悪影響だが、檜は他の木に日当たりを邪魔されずに生育できる。ゆっくりとした成長により、年輪幅が狭い、上質な木材が育つ。また、元親は山林資源に関する取り決めを定めていた。秀吉は土佐の材木こそ、日本一と褒誉していた。
土佐は四国の中でも米の収穫量が低く、森林資源を厳しく管理することで貴重な財源にしていたという。秀吉は送って欲しい材木について細かくオーダーしていて、元親が擁する職人の技術力、能力の高さを評価していたことがうかがえるという。秀吉の薨去の翌年、元親 は61歳で死去。後を引き継いだのは四男の盛親だが、関ヶ原の戦いで西軍につく。土佐国は没収となり、牢人となってしまう。
牢人だった長宗我部盛親は大阪の陣で豊臣方についた。八尾の地形に精通し、敵軍の迎撃に成功したという。また、味方の多くは関ヶ原の戦いで西軍につき、失職してしまった武士たち。大阪の陣は牢人たちからすれば、武功をあげるチャンスともいえる。命を賭けるなら名のある武将のもとで戦いたいという心理が働いた彼らにとって、長宗我部というネームバリューは大きな魅力だった。だが、盛親は捕らえられ、斬首となる。
「歴史探偵」の次回予告。