2026年9月11日放送 19:00 - 20:54 日本テレビ

金曜ミステリークラブ!!!
▽タイタニック号ただ一人の日本人…奇跡の生還からなぜ非難?

出演者
二宮和也 ノブ(千鳥) 
実話ミステリー
タイタニック号に乗っていた日本人…生き延びたのに世界から非難 なぜだ?

1912年当時、世界最大の豪華客船と呼ばれた「タイタニック号」は、北大西洋を航海中に海面からの高さ約30mの氷山に衝突し沈没し、乗客・乗員およそ1500人が命を落とした。その「タイタニック号」にはただ一人の日本人・細野正文が乗っており、沈没事故を生き延びた。細野正文さんは、「イエロー・マジック・オーケストラ」の細野晴臣さんの祖父だという。細野晴臣は、祖父が沈んでいたら自分は生まれなかったと語る。細野正文は帰国後、生きて帰ってきたことに世界中から非難を浴び、家族は離れ離れとなった。「タイタニック号」沈没事故の研究者は、当時は白人が一番優れていると考えられていた時代が原因ではないかと話す。細野正文が生き延びたのに世界から非難された理由とは!

問題、細野正文が生き延びたのに世界から非難された理由とは。出演者からは、アジア人差別や「日本人なのに」1番いい客席に乗ってて助かったからという考察、スタッフとして乗船したのに生き残ったという考察などが聞かれた。

「タイタニック号」は1912年4月10日、イギリスサウサンプトン港を出航した。当時世界最大の豪華客船と呼ばれた「タイタニック号」は、ジムやサウナなどを備え、安全性も当時の最先端で浮沈船と呼ばれていた。北大西洋を横断し、アメリカのニューヨークへ向かう8日間の旅に、唯一の日本人である細野正文が乗客として乗船していた。細野正文は、鉄道員のエリート官僚で、鉄道を視察するためロシアへ行き、その帰りに偶然「タイタニック号」に乗った。当時細野には3人の息子と1人の娘がいた。航海から5日目の夜11時40分、約30mに衝突し、右側前方90mが損傷し船底に亀裂が走った。しかし船長はこの重要な報告を乗組員と共有せず最高速度を維持して航行した。それは、到着が遅れることによって世界中の信用を失うことを恐れたからだった。研究者は、船が正面から衝突していたら戦隊が氷山に乗り上げて沈没するまでの時間が伸び、他の船に救助された可能性があると話した。その時は乗客の多くが事態の深刻さに気づいていなかった。船室は階級ごとに3つに分かれており、1等客室と細野が利用していた2等客室には破損箇所から離れていたが、船底に近い3等客室の乗客は異変に気づいていた。当時船には警報はなく、客室係が各部屋を訪ね乗客を誘導した。理由も教えられず甲板へ挙げられた乗客たちの右往左往する姿は細野の手記にも綴られている。その時、細野は乗員に3等客と思われ、3等客はボートデッキに行けないことを告げられる。

タイタニック号に乗っていた唯一の日本人、細野正文。わけもわからず甲板に上げられたが3等船客と思われ下に降りろと言われる。しかし細野は2等船客。人種差別をされたという。3等船客は1等エリア、2等エリアの出入りを制限されていた。緊迫した様子や当時の状況は映画でも詳細に映し出されている。一部の3等船客はゲートの中に閉じ込められた。さらに救命ボートは船の最上階デッキに設置され、そこに近い1等船客は最初に誘導されたが船底に近い3等船客は避難に時間がかかった。1等船客の生存率は約62%、3等船客は約25%だった。人種により3等船客だと決めつけられた正文。2等船客であることを伝え、ゆるされ、財布だけをとり、各国の金貨、メガネを取るのを忘れ最上階の甲板へ向かった。多くの男女が群がっていた。タイタニック号は救命ボートの数がまったく足りていなかった。乗客・乗員2200人に対し救命ボートはわずか20艘、半分程度の人数分しか用意していなかった。イズメイ社長のある思惑があった。あろうことか人名よりも船の景観を最優先。この判断が悲劇を生んだ。事故の生存者はわずか約700人。しかし、用意された救命ボートの乗員は約1200人、生存者があまりに少なすぎる。なぜか?

タイタニック号沈没事故の生存者はわずか約700人。しかし、用意された救命ボートの乗員は約1200人、生存者が少なすぎる、なぜか?乗組員は救命ボートの訓練を一度も受けておらず定員より少ない人数でボートを海に出していた。さらに救命ボートに優先して乗れるのは女性と子どもだった。ボートに空きがあれば男性でも乗ることができたが、助かるべきは自分にあらず、正文は静かに家族との別れを告げた。そしてタイタニック号は不沈船と言われたタイタニック号は氷河と衝突してからわずか2時間40分で海のもくずと消えた。沈没から2日後、悲劇のニュースは世界を駆け巡り、日本でも事故の悲惨な様子が報じられた。家族も知らない生存の謎。死を覚悟した正文に何が起きたのか?そのとき、生死を分けたのはわずかなめぐり合わせだった。人種の壁を越え差し伸べられた救いの手。そして、沈没から約6時間後、約700人の生存者はカルパチア号に救助された。沈没から4日後、正文の無事が一斉に伝わった。1912年6月3日、正文はニューヨークから船で帰国。2年ぶりの再会。だが悲劇が、タイタニック号から生還したことに対し非難された。生存者の1人が日本人が他の人を押しのけて救命ボートに飛び乗ったと誤った証言をした。生存者の証言をまとめた著書にも事実とは異なる噂が広がり非難された。自宅に中傷の手紙など嫌がらせが相次いだという。その結果、長年勤めた鉄道院を解雇。さらに非難の矛先は長男にまで及び、東京を離れ新潟へ転校。正文は世間からの非難に一度も反論しなかった。多くの人々が亡くなり、自分だけが運良く生き流れた事実を誰より重く受け止めた。事故の真実を記録した手記の存在すら明かさなかった。正文はひっそりと人生をまっとうして1939年68歳で他界。彼の死から3年、二男が遺品を整理しているとき、偶然、正文の手記を見つけた。1997年、あることがきっかけで正文の汚名が返上される。映画「タイタニック」の公開をきっかけにタイタニック号の遺品管理をする財団が正文の手記を調べたいと打診。手記の公表により事故の真相が世界中へ知れ渡った。その一報は日本でも大々的に報じられた。正文の名誉は死後約60年たって回復した。現在、タイタニック号は海底約3800mに沈んでいる。腐食や劣化により数十年後には消えてしまうといわれている。事故の教訓は風化させてはならない。

痴漢に間違われた無実の男 一枚の紙で奇跡の逆転無罪! なぜだ?

19年前、映画にもなった大逆転の法廷ミステリー。2007年公開の映画「それでもボクはやってない」。電車内で痴漢に間違われた男の絶望を描いたこの映画には製作のきっかけとなった事件がある。2000年に起きた西武新宿線第1事件。早朝の電車内で痴漢に間違われた男性が現行犯逮捕。無実を証明するべく約2年裁判で戦った。世紀の大逆転裁判!痴漢に間違われた不幸な男の無実がたった一枚の紙切れで証明された。なぜだ?事件の当事者である矢田部孝司さんを取材。一審では懲役1年2か月の有罪判決。映画は判決に異議を申し立てるところで終わるが、無実を勝ち取るまでには過酷な戦いの日々が。矢田部さんの事件をよく知る映画監督の周防正行さん。警察で取り調べを受けたときに矢田部さんは無実を証明するためにあるモノを紙に書き残していた。その一枚の紙が無罪の鍵に。

塩崎さんは目の前にいた人を思い出して書いたのでは?などと回答、横澤さんは俯瞰して見た図をかいたのでは?などと回答するなど、出演者からは様々な意見が上がり、塩崎さんが皆の意見をまとめ妖しい人のモンタージュを描いたとなった。

2000年12月5日、西武新宿線東村山駅。その日矢田部さんはいつもの通勤電車に乗車。午前7時43分、日課の英会話CDを聞いていた。田無駅から混雑状態に。いつも通りの朝だった。高田馬場駅で降りて乗り換え階段に向かっていたその時、腕を掴んできたのは田無駅から乗ってきて一度目が合っただけの女性。誤解はすぐに解けると思っていた。これが730日の壮絶な戦いの始まり。連れて行かれたのは駅に隣接する交番。詳しく離せば誤解は解けると信じていたが、事件から約50分で警察署へ連行。犯人と決めつけた取り調べ。ホームで女性に袖をつかまれたあの瞬間、法律上、矢田部さんは現行犯逮捕されたことに。私人逮捕と呼ばれ、現行犯に限り、一般人でも逮捕状なしで逮捕できる。必死の訴えも刑事の耳には届かず。ならばと無実を証明するため一枚の紙にあるものを描いた。しかし、手錠の冷たい完食に言葉を失った。衣服や所持品を没収され留置所へ収容された。

その日に衣服や所持品を没収され留置所へ収容された。最長で20日間、起訴か不起訴か検事の判断を待つ。急に逮捕された時でも一度だけ無料で派遣された弁護士からアドバイスを受けられる。当番弁護士という制度がある。日本の刑事裁判における有罪率は約99.9%。何としても不起訴に持ち込む。日付が変わるころ妻ははじめて夫に起きている事態を知った。あの一瞬で明るい未来が崩れた。恐怖と絶望、眠れぬ夜を過ごしたという。逆転無罪を勝ち取った証拠とは?

映画「それでも僕はやってない」の制作のきっかけとなった痴漢えん罪事件。逮捕の翌日。妻は差し入れを持って警察署へ。カバンを点検する警官に首吊り自殺をしないようタオルは正方形の小さなものだけと注意を受け、さらに「前科1犯の人なんて沢山いる」と慰められる。耳を疑うような言葉にただ涙をこらえるしかなかった。矢田部さんは検察庁に移送され、検事から取り調べを受けた。取り調べのときに描いた紙のことで、どうしこんなに覚えているんだと疑われ、「痴漢をしようと思っていたんだろう」と検事にまで犯人扱いを受ける。逮捕から6日後、妻との面会。久しぶりの再会はわずか20分だった。翌日、妻は姉から紹介された弁護士と矢田部さんの職場へ。矢田部さんの上司に最悪の場合起訴されることもあるが、それでも矢田部さんを退職に追い込むようなことはしないでほしいと頼みに行く。上司は了承し不起訴になるまでは病気療養中ということで社内には伝えておくという。矢田部さんはそれを聞いて孤独と不安が続く勾留生活に微かな希望が湧いた。だが、依然として犯人扱いの取り調べが続き、事件当日の電車を調べたという警察が、乗っていた車両の位置は吊り革がなかったと告げ、左手はどこにあったのかと詰められる。吊り革の有無が後に大きな意味を持つとはこの時は思いもしなかった。勾留期限が切れるこの日、矢田部さんは起訴されることとなった。刑事裁判の有罪率は約99.9%、まるで鈍器で殴られたような衝撃だったという。起訴されると、被疑者から被告人に呼び方が変わり正式に刑事裁判にかけられる。矢田部さんが起訴されたと報告を受けた妻。子どもたちに本当のことを言えるわけもけもなかった。

逮捕から22日。この日面会に来たのは上司と人事部長。会社からは今すぐ会社を辞めるなら退職金を出すが、それが嫌なら裁判の結果が出るまで会社には出てこないでくれと言われる。矢田部さんは今辞めれば痴漢をしたと認める事となるが、辞めれば退職金や失業保険で家族の当面の生活は守れる。守るべきは自分の誇りか、家族の生活か、矢田部さんは辞めることとなった。絶望の最中、矢田部さんにとって唯一の支えだったものは、子どもたちとの手紙のやり取り。迎えた第一回公判。矢田部さんの罪状は強制わいせつ罪と公然わいせつ罪だった。裁判はわずか20分ほどで閉廷。これから真実が明らかになる、そう信じていた。閉廷後、妻は弁護士から日本国民救援会の中野さんを紹介される。日本国民救援会は全国に会員を持ち、えん罪被害者やその家族を支援する人権団体。すると中野さんは、傍聴席に妻が1人だけだったことを指摘し、親族や友人を呼んでいっぱいにするように助言する。そうすることで裁判官の判決も変わってくることがあるのだという。矢田部さんは次の法廷は1か月かもう少し先になること、保釈も2~3か月先になると弁護士から告げられる。終わりの見えない勾留生活が次第に矢田部さんを追い詰めていく。一方妻は、夫の力になりたいと支援者を増やすため、思いつく限りの知人に電話をかけ続けた。だが、妻の必死の支えが矢田部さんの不安をより掻き立てていた。矢田部さんはこれで有罪にされてしまったら、それまで信じてくれていた人にも「なんだ」と思われる恐怖があったという。

この日は、被害者尋問。被害者は未成年のため、非公開で行われた。20代後半ぐらいの天然パーマのような感じの男に被害に遭ったと被害者。矢田部さん37歳で髪質も違う。被害女性の証言は明らかに矢田部さんの特徴とは違ったが、検察側は全く問題視していなかったという。弁護士は客観的な事実を食い違っているのに警察は再捜査すらしなっかたため、そこを突けば無罪になる可能性はあるという。矢田部さんにとってそれは微かな希望だった。逮捕からおよそ3か月。保釈金250万円を納め保釈が認められた。勾留期間は約90日に及んだ。支援者と共に新たな証拠集めに奔走した。そんな中、矢田部さんの乗っていた電車の再現ビデオを作る提案が。被害者の証言を実際に演じてみれば、もっと矛盾点が見えてくるかもしれないということだ。制作した実際の再現VTRでは、約25センチある2人の身長差では犯行にかなり不自然な姿勢を強いられると判明。仲間たちの支援が追い詰められた矢田部さんの心を支えた。周防さんは「被告人が戦う気持ちを持たないと裁判持たない。被告人を支えることが一番重要な支援者の役割」と語る。しかし矢田部さんにはもう一つの問題が…。裁判の準備で再就職する余裕などなく約4500万円の住宅ローンなど貯金を切り崩す日々。ふと思い出したのは、検事の放ったあの言葉「裁判は長くかかるぞ。認めたいなら早く言ってきなさい」。

矢田部さんは、裁判の準備で再就職の余裕はなく、精神は限界を超えていた。妻にも八つ当たりをするようになり、妻の「生きていても仕方がない」という言葉に子どもに手をかけようよする。しかし妻に見つかり、そこで目が覚めたように、矢田部さんは妻とともに泣いた。

2001年12月6日に有罪判決が出た。証拠の再現VTRは、脚を開いて腰を落とせば犯行は可能と判断された。捕まっていたと主張したつり革は警察の捜査でなかったと判断され、矢田部さんの供述そのものが信用されなかった。矢田部さんは判決を不服として即日控訴に踏み切った。そして、子どもたちに、隠してきた事実を全て打ち明けたが子どもたちはすでに知っており、裁判官に宛てた手紙を矢田部さんに差し出した。そして第1審の反省から裁判資料を見直す作業を始めた。2002年4月18日、矢田部さんが記憶を頼りに電車にいた人の特徴や位置関係を記した見取り図から真犯人の可能性がある人物を見つけ出し、第1審とは違って真犯人がいたという立証をする方向へと転換する。ついに矢田部さんの人生を賭けた最後の戦いが始まった。

控訴審で矢田部さん側は、車内の状況を表す図面で、矢田部さんの左側にいた男性が真犯人だと主張する。これに対し検察側は、つり革を理由に図面の信憑性の薄さを主張する。しかし、弁護側はそれに対して、事件当時矢田部さんが乗っていた車両にはつり革があったことを証明する。そして2002年12月5日の結審で無罪となった。逮捕から730日、遂に逆転無罪が確定した。現在は冤罪事件の支援活動を行っているという矢田部さんは、支援者を広げてくれたのも家内、運が良かったなどと話した。

真犯人&トリックを暴け!
金田一少年の事件簿 作者から挑戦状! 奇妙な死のメッセージ なぜだ?

「金田一少年の事件簿」など累計発行部数2億部を誇るミステリー漫画界の巨匠・天城政丸が「金曜ミステリークラブ」ためだけに書き下ろしたショートミステリー第2弾。天城さんは、前回はあっさり解かれてしまったので今回はひとひねりしたミステリーを書いたなどと話した。

真犯人は? 死者が書き残したクミコ…でも元恋人はクニコ なぜだ?

第二話、不自然なダイイングメッセージ。イトウヒロキがアパートの自室で死んでいるところが管理人に発見された。死因は首を刺されたことによる失血死で死亡推定時刻は昨夜10時~12時、凶器はカッター。警視総監の孫である三ノ宮真も盾持刑事の捜査に立ち会うことに。現場には「クミコ」というダイイングメッセージが残されていた。管理人によると被害者の男性の交際相手は「クミコ」ではなく「クニコ」だという。管理人が最後に「クニコ」を見かけた時にはヒロキと別れ話で言い合っていたという。一方、ヒロキのスマホを解析したところ、テツヤという元同僚が先月、会社を懲戒解雇になっていることも判明した。そして毎晩ヒロキの彼女と争う声などの騒音を聞いていたと話す隣人のトシキは、ヒロキの死亡推定時刻に部屋で寝ていたと証言する。そしてこの3人のアリバイがないことが分かった。ヒント1ダイイングメッセージはなぜクミコなのか、ヒント2現場写真に隠されたもう一つの不自然、この2つが犯人を示している。

犯人は一体誰?二宮さんらは隣人のトシキが犯人と予想した。

謎解きの時間。凶器と同じカッターが変ではないか?と推理。

左利き用のカッターは右利きと左右が逆の作りになっている。カッターだけではなく、マウスなども左利き用。ヒロキさんは左利きだった。しかし、ダイイングメッセージは右手で書かれていた。つまりダイイングメッセージはヒロキさんが書いたものではなく、ヒロキさんの利き手を知らないであろう人物。

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