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オープニング映像。
1941年12月8日。人々はラジオから流れる開戦の知らせが日中戦争の鬱屈とした空気を変えてくれると期待し歓喜に湧いた。その一方で、前線の兵士達は悲痛な思いを手記に綴っている。個人が記した日記や手記を元にしたエゴドキュメントで太平洋戦争の新たな姿に迫る「新・ドキュメント太平洋戦争」2回目の今回は開戦直後の熱狂と前線に垣間見えた地獄に迫る。
1941年の12月、真珠湾へと向かっていた日本の大艦隊。搭乗員の殆どは10代から20代の若者で、彼らの手記には「日本の将来の発展は我々の双肩にかかっている」といった思いが記されている。国力で圧倒的に勝るアメリカとの戦争の目的を、昭和天皇は「自存自衛」と開戦の詔書に記した。泥沼化した日中戦争を背景に、中国を支援するアメリカとの対立を深めていた日本はアメリカの石油禁輸措置を受けて南方資源地帯への一撃を敢行。それとほぼ同時にハワイへの攻撃を行うこととなった。そして運命の12月8日、空母から183機の第一次攻撃隊が飛び立った。
無線機から流れてきたラジオのジャズを頼りに、ホノルルを目指した第一次攻撃隊。オアフ島上空では試験運用されていた米軍のレーダーが日本機を捉えていたが、それが友軍機ではなく日本機であるとは誰も思いもしなかった。悠々と上空に侵入した第一次攻撃隊はアメリカが誇る主力戦艦や滑走路、航空施設などを次々に攻撃。「トラ・トラ・トラ」の報告に、長門の艦内で山本五十六は表情を緩ませた。こうして始まった真珠湾攻撃でアメリカ側は死者2000人以上の死者を出し、300機以上の飛行機を失う。
パールハーバーで甚大な被害を出したアメリカだが、閣僚たちの態度は冷静なものだった。元々第二次世界大戦への参戦を考えていたアメリカにとって真珠湾攻撃は国民を納得させる格好の機会であったのだ。それとは知らず、日本では多くの市民がアメリカ相手の戦勝に歓喜した。ラジオでは日本の華々しい戦果が繰り返し喧伝されたが、攻撃で犠牲となった搭乗員たちについて省みられることはなかった。
真珠湾での華々しい大勝利を受けて、市中の人々の間には「大東亜共栄圏」という言葉が溢れた。これはアジア諸国を欧米の植民地支配から開放し、一大勢力圏を築くことを目的としたことを指す言葉で、日本の戦争目的として「自存自衛」と共に掲げられていた。太平洋戦争は元より石油確保のために行われた戦争であったが、東條首相が「大東亜共栄圏の建設」を目的に掲げたことで戦争目的そのものが変質し始める。これによって、日本は早期和平の糸口を見失い始めた。
戦争初期に行われたシンガポール攻略の作戦では、侵攻した日本軍を現地のマレー人たちが支援した。これを受けて序盤は優勢に進んでいた日本軍だが、深いジャングルに苦戦し始める。やがて前線の兵士たちは食料が満足に調達できないという現実に直面した。元より食料調達に喘いでいた日本だが、開戦により食糧事情は更に悪化。前線へ食料を届ける能力が失われつつあることを政府も認識しており、苦肉の策として「現地自活」を掲げる。物資不足に悩む日本軍はこれを免罪符に過激な略奪強姦に走り、現地人の強烈な反日感情を呼び起こしてしまう。「アジア解放」の理想はここに崩れ始めていた。
前線の現実を知らぬままアジア解放を信じ続けていた市井の市民たちは日本軍のシンガポール上陸を万雷の拍手で祝福する。それとは裏腹に激戦が展開されていた前線では、死を覚悟する兵たちも相次いでいた。そして2月18日、シンガポール陥落の報を受けた日本国民は戦勝の喜びに湧いた。その裏側で、シンガポールの部隊には「日本軍の作戦を妨害する可能性のある抗日分子を処刑せよ」という命令が下された。この命令により虐殺された人数は数千人から数万人を数えたとされている。こうした前線の状況に、ある陸軍将校は「なんとか早期に平和が訪れないものであらうか」と手記に綴っていた。
真珠湾攻撃以降も4年間に渡り続いた太平洋戦争が泥沼化していく中で、銃後の熱狂はさらに加速していく。真珠湾攻撃で死亡した潜水艦搭乗員らは1942年になってからようやく名前が明かされ、「九軍神」として讃えられたが、捕虜になった兵士の名前は掻き消されていた。日本が戦場での死を美化する一方で、アメリカもまたパールハーバーの報復を果たす道へと突き進んでいく。
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