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「あの日 昭和20年の記憶」 のテレビ露出情報

赤松良子さんは女性キャリア官僚の草分け的な存在で、職場での男女の平等を目指す男女雇用機会均等法の成立に尽力。女性の地位向上に力を注いだ。細川羽田内閣では民間から入閣し文部大臣を務めた。赤松さんは昭和4年に大阪で生まれお転婆で女のくせにという言葉がなによりも嫌いだった。女学校時代に働く女性へのあこがれをつのらせていく。戦後に女性の参政権が認められると心が踊った。赤松さんは東京大学法学部で学んだあとに労働省に入省した。女性という理由だけで婦人少年局に配属され、同期の男性たちは部署で経験を積んで昇進していくが、赤松さんは留め置かれた。高度経済成長期になると女性の職場進出は進むが大学を出ても補助的な業務ばかり。女性の定年を20代や30代とする企業が多く、採用時に書かされた結婚退職を巡って訴訟も起こされた。怒りのあまりペンネームで密かに論文を投稿したことも。赤松さん自身は子育てをしながら女性の地位向上を模索した。転機となったのは、世界の潮流。昭和54年に国連でいわゆる女子差別撤廃条約が採択された。日本も条約を批准するために男女の雇用を平等にする法律に迫られた。53歳で労働省婦人少年局の局長に就任した赤松さんは法案作りに取り組んだ。
しかし経済界の反発は大きなもので男女平等にすると経済活動が止まってしまうという意見があった。赤松さんは財界幹部をまわって日本の先進国としての立場が怪しくなると説得した。企業や労働組合を交えた審議会は難航を極め、雇用のすべてで男女差別を禁止したい労働者側と企業の採用昇進などを努力義務にすべきと反論し、その中で赤松さんは苦渋の決断をした。法案では定年や解雇に関しては差別が禁止されたが、採用、昇進などは企業の努力義務に。昭和60年には男女雇用機会均等法が成立した。しかしその法案に不満があったが重かった扉は開いた。その後ウルグアイ大使を勤めるなど国際舞台でも活躍。平成20年には日本ユニセフ協会の会長に。他にも80歳で女性の国会議員を増やすための団体を設立するなどした。その後男女雇用機会均等法はその後改正を重ねて採用や昇進などの差別は撤廃された。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年12月29日放送 6:10 - 6:40 NHK総合
耳をすませば女性の幸せづくりに情熱を燃やして〜桂由美×赤松良子〜
男女雇用機会均等法の制定に尽力し「均等法の母」と呼ばれた赤松良子は昭和4年大阪生まれ。「女のくせに」という言葉が何より嫌いだった。戦後、女性参政権の実現に心を踊らせ東京大学で学んだ後、1953年に労働省(現・厚生労働省)に入省。女性だという理由だけで婦人少年局へと配属された。同期の男性職員が続々といろんな部署を経験し昇進する中、赤松は留め置かれた。高度経済成[…続きを読む]

2024年6月1日放送 5:40 - 5:50 NHK総合
NHK映像ファイル あの人に会いたい(NHK映像ファイル あの人に会いたい)
正司歌江はかしまし娘の長女として三味線を弾き人気を博した。俳優としても数々の作品に出演。昭和4年北海道で生まれ両親は旅芸人だった。3歳で初舞台を踏み12歳で妹の照枝とコンビを結成。戦争中は慰問にも出かけた。18歳のとき芸能界から離れた。親に勘当されキャバレーで働くなど職を転々とした。やがて富山へ移り芸者として働く。1956年かしまし娘を結成し人気を博した。し[…続きを読む]

2024年5月29日放送 16:05 - 17:00 NHK総合
午後LIVE ニュースーン蔵出しセレクション
かつて文部科学大臣を歴任した赤松良子さんは生前は女性の地位向上に力を注ぎ、1985年当時男女雇用機会均等法の成立に尽力していたが今年94歳で亡くなった。赤松良子さんは昭和4年に大阪で産まれ、女学校時代は働く女性へ憧れをつのらせつつも女性に参政権が無いことに疑問をいだいていた。東京大学を卒業後は当時の労働省に入省し、女性という理由だけで夫人少年局に配属された。[…続きを読む]

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