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オープニング映像。
今年94歳で亡くなったファッションデザイナー桂由美さん。日本にウエディングドレスを浸透させブライダル文化を発展させた。女性官僚の草分けとして活躍した赤松良子さんも今年94歳で亡くなった。職場での男女平等を目指す男女雇用機会均等法の成立に尽力。女性の地位向上に貢献した。同じ時代に生き、女性の幸せのために情熱を燃やした2人。その言葉に耳をすませていく。
ブライダルのファッションデザイナーとして活躍した桂由美は昭和5年東京生まれ。後に洋裁学校を営む母の元で育った。戦争が暗い影を落としていた青春時代、演劇に夢中になり昭和24年共立女子大学家政学部に進学。30歳の時、デザインの縫製や技術を学ぶためパリへ留学した。パリの女性のエレガンスな所作や服装に刺激を受け、帰国した桂はウェデングドレスに関心を持った。雑誌の取材をかねて世界の結婚式を見て回った。花嫁をトータルコーディネートする専門店を開くため老舗のデパートに掛け合い続けたが呉服店には勝てず出展は叶わず。昭和40年、青山に「桂由美ブライダルサロン」をオープンした。さらに日本初となるブライダルファッションショーを開催。しかし当時の結婚式では9割が和装。着物が圧倒的主流を占める中、開店当初は苦しい経営が続いた。だが、女性のシルエットを美しく見せるドレスは徐々に評判を集め、昭和56年に世界進出を果たす。51歳の時、ニューヨークでショーを開き大評判に。アメリカ用に開発したほっそりしたラインのドレスはユミラインと呼ばれ、「桂由美」の名は一躍世界に知れ渡った。昭和50年代後半になると桂は織物や染め物など日本の伝統を駆使した作品を手掛けるようになった。平成15年、72歳からはパリコレに参加。和紙で作られたドレスはパリの人々を驚かせた。晩年になっても新たな美を創り続けたいという意欲を持ち続けた桂は女性一人ひとりの魅力を引き出し自分らしいウェディングを挙げられるように力を注いだ。
男女雇用機会均等法の制定に尽力し「均等法の母」と呼ばれた赤松良子は昭和4年大阪生まれ。「女のくせに」という言葉が何より嫌いだった。戦後、女性参政権の実現に心を踊らせ東京大学で学んだ後、1953年に労働省(現・厚生労働省)に入省。女性だという理由だけで婦人少年局へと配属された。同期の男性職員が続々といろんな部署を経験し昇進する中、赤松は留め置かれた。高度経済成長期に入ると、女性の職場進出は進んだが、そこで任されるのは補助的な業務ばかり。採用時に「結婚したとき」や「35歳に達したとき」などの退職要件の念書を書かせる企業もあった。不平等な差別に怒りを募らせる赤松の転機となったのが1979年国連で採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」。日本も男女の雇用を平等にする法律を作る必要に迫られた。53歳で労働省婦人少年局の局長に就任した赤松は法案作りに取り掛かった。しかし経済界の反発は予想以上のもので、男女平等にすると経済発展が滞ると考えた財界側は反対声明を準備。赤松は日本の先進国としての地位に傷をつけてはいけないと説得に奔走した。幾度も開かれる審議会は平行線のまま、ついに赤松は妥協案を提示。定年や解雇などについては女性差別は禁止されたが、採用・昇進などは企業の努力義務にとどまった。1985年、男女雇用機会均等法が成立。その内容に赤松は到底納得がいっていなかったが、この法律が男女平等社会のきっかけになればと自分自身を慰めたという。日本ユニセフ協会の初めての女性会長に就任するなど80歳を過ぎても尚、精力的に活躍。男女雇用機会均等法はその後改正が重ねられ採用や昇進の差別は禁止された。
エンディング映像。
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