孝雅がオープンしたパン屋はあっという間に繁盛店になった。オープンから2年後にはチェーン展開を開始。仲間も集まり、父の和洋菓子店もパンの店に変え孝雅は社長に就任した。1年に1店舗のペースで新たに出店し売上は年間4億円を記録した。あるとき父に「店を増やしすぎじゃないか」「ちゃんと人を選んで店長にしているのか」言われた孝雅は「ここまで店を大きくしたのは俺だよ」「ちっちゃい店しか経営したことない親父にはわからない」と言い放った。その後たかちゃんのぱん屋は10店舗以上を誇るチェーンに成長。パンの本場である神戸への出店がかなった。すると出店の前日、前日まで夢を語り合っていた仲間がライバル店に転職した。数日後2人の店長も退職を申し出た。この頃大手コンビニが近くに進出し早朝営業のアドバンテージを失い、さらに周りにパン屋がいくつも誕生し業績は悪化。現場の負担や労働時間が増えてブラック化していた。孝雅は広島県中の店舗を1人で回ってパンを焼いていった。孝雅は車でガードレールにぶつかる自損事故を起こしたが病院にも行かずパンを焼き続けた。2億円もの借金ができ、このままでは店は半年もたない状況になっていた。そんなとき栃木県でベーカリーを営む弟から「2000万円なら貸せる」と電話があった。孝雅は申し出の半分である1000万円を借りることにした。銀行の融資も継続してもらえることになった。最初の融資は孝雅のパンの味や事業計画書が評価されたわけではなく、祖父と父が築き上げた信用があってこそのものだった。そして孝雅は広島の和菓子店の商品が全国的に大ヒットしていることを知った。