世紀を刻んだ歌、イマジン。2001年9月11日、同時多発テロ事件が起き多くの人が犠牲になった。事件後街には星条旗があふれ、報復の声が多くなった。そうした中ラジオでふさわしくないと言われる曲のリストの中に平和を願う歌、イマジンも含まれていた。イマジンの逆風の声がある中、9月21日に犠牲者の追悼の番組で歌手のニール・ヤングはあえてこの曲を選び歌った。
更にその2日後、ニューヨークの新聞一面には「想像してごらん、みんなが平和に暮らしているところを」とイマジンの一節の歌詞が載せられていた。この広告を作ったのがジョン・レノンの妻、オノヨーコさんだった。報復の声が多くなる中あえてこの歌詞を選んだ。オノヨーコは平和を求める声をニューヨークのタイムズスクエアに掲載した。ラジオにもリクエストが多くなった。当時多発テロから1カ月後、ニューヨークなどのクラブでイマジンをアレンジした曲がかかるようになった。この曲はビルボートでチャートインするほどのヒット曲になった。この曲を歌ったのはサー・アイバンで、46才になって初めて録音したデビュー曲だった。サー・アイバンの父、シギ・ウィルジックさんは16才の時にアウシュビッツ強制収容所に送られ生き延びた人物だった。戦後奇跡的に生き延びたシギさんはわずか数ドルを持ってアメリカに移住する。そして苦労を経て銀行の頭取になるというアメリカンドリームを果たした。アイバンが46才でイマジンを歌ったのも家族の歴史があったからだという。
サー・アイバンはアウシュビッツの生き残りの子供として、使命感を感じ、イマジンは今の若者の世界の見方を買える力を持つと話した。当時のことをデニスさんはラジオで振り返り、同時多発テロによって、曲の意味は変わってきたと話す。日本でも同時多発テロのあと、イマジンの歌の意味を考えるようになる。杉並区立西宮中学校では、4年前から英語の授業で取り上げられるようになった。藤原孝弘さんはオノ・ヨーコさんが新聞広告に載せたイマジンの一文について、子どもたちにも考えてほしいと思い授業に取り入れた。授業で知ったことに心を動かされた生徒たちは、オノヨーコにあてた手紙に書くことにした。生徒の石倉志織さんは、テロなどの悲しい出来事がある時こそ世の中に必要な曲だと思うと綴った。藤田良さんは、ジョン・レノンさんは死んでしまっているけれど、自身の心の中に残っていると話す。
金子奈生さんはジョンレノンさんが天国からヨーコさんを見守っているように、私達もヨーコさんを見守っていると書いた。斉藤潤さんは、当時はテロの報復に賛成していたが、しかしイマジンの曲を聴いたりすることで報復がただしいかわからなくなったと話した。船越七菜子さんはイマジンの曲を聴いて悲しくなり、平和を一人ひとりが心がければすごく簡単なのにどうしてか、私はもっと優しくなりたいと書いた。イマジンが生まれたときもアメリカはベトナム戦争で戦争の最中だった。アメリカでは戦争の反対運動が起こっており、そのシンボル的な存在になっていたのがジョンレノンとオノヨーコだった。2人はベッドで平和について話すベッド・インが行われていた。その中で生まれた曲がGivePeaceAChance。その後平和を願う一文を世界の主要都市に出すキャンペーンを行った。その時のメッセージが、君が望めば戦争は終わる。だった。こうした中ジョンレノンが思い描いた戦争のない世界がイマジンだった。このアルバムのデザインはオノヨーコが手掛けたものだった。
実はイマジンの歌詞にインスピレーションされたのもオノヨーコの詩集だった。この詩集の中に想像してごらん、が散りばめられていた。ジョンレノン直筆の作詞原稿には、「夢だと思うかもしれない。でも僕一人じゃないんだ」となる節は、ジョン・レノン最後まで遂行していた。イマジンの録音はロンドン郊外にあった自宅で行われていた。録音にはオノヨーコさんも関わった。デニスさんは60年代当時、ベトナム戦争により社会的、文化的な変化をもたらしたと話す。そうしたなかジョンレノンとオノヨーコは彼らなりにメッセージをイマジンで伝えたかったのではと振り返る。今回オノ・ヨーコさん宛に手紙を書いた生徒の親は、ちょうどビートルズ世代にあたる。西宮中学校の生徒、柴田真里さんは父がジョンレノンのファンだと明かした。ジョンと呼ばれている柴田義一は子供がジョンレノンについて学んだことについて、自身の好きなジョンレノンのことを話せる絶好の機会とおもった。
柴田義一さんは学生のころビートルズに夢中になり、バンドも組んでいた。柴田さんは建設関係の仕事に就いており、楽器にふれる機会も減った。柴田さんがイマジンを最初に聴いたのは、社会人になったばかりのこと。今も家路に帰る途中で聴いている。そしてイマジンの全詩集が流れた。イギリスで行わた好きな曲アンケートでは、イマジンが堂々の1位となった。デニスさんはこれについてイマジンの魅力はシンプルな歌詞で、誰もがわかる言葉で伝えている点だと話す。宗教がないということについて、重要なのは人々が分け隔てるものがあってはならないということにある。国境などをのりこえて一つになろうとイマジンは訴えているのではと話す。
1980年12月8日、ジョン・レノンが死亡した。その6日後、世界各地で追悼の集会が行われた。アメリカにあるセントラルパークでは10万人近い人で埋め尽くされた。10分間の黙祷のあと、イマジンが流れた。翌年1月、イマジンはヒットチャートに再登場、シングルとして初めて1位となった。その後戦争などが起きるたびに人々の心を捉えてきた。1991年の湾岸戦争。イギリスでは若者がジョンレノンの歌詞を掲げて反戦デモを掲げた。1996年にオリンピックが開催中にテロ事件がおきた。アトランタオリンピックの閉会式、スティービー・ワンダーが歌ったのがイマジンだった。2002年3月、ニューヨークは着実に復興へと進めていたが、中でも子どもたちの心のケアは大きな問題となっていた。ジョンレノンがよく訪れたストロベリーフィールズに集まったのはニューヨークに住む中学生。イマジンが伝えるメッセージを噛みしめることで傷ついた子供たちに未来への希望を持ってもらおうというイベント。
ゴードン・スキナーさんはイベントの中で、イマジンを生活に活かせる方法を生徒に訊ねた。生徒の中には人に酔って考え方の違いがあるという意見や、相手が何を思っているのかを考えるのではなく、その人がどのような人なのかを見るべきといった声があった。ゴードン・スキナーさんはこの歌詞を見て実際に行動して、生活にいかしたときに初めて世界を変えることができると生徒に伝えた。小林さんは一つの歌で世界を変えられるかについて、デニスさんは劇的に変える力はないかもしれないが、大勢の人が前向きなイメージを植え付けることができれば世界をより良く変えられる期待ができるのではと話した。小林さんはイマジンは嵐の中の灯台のような、希望の光だと話す。ボストンではイマジン・プロジェクトが進んでいる。街のあちこちにイマジンと大きく描かれた壁画がある。とある場所の壁画では子どもたちが想像した理想の世界の姿が描かれている。これは市を上げて取り組んでいるプロジェクトで、幼稚園から高校生がイマジンで始まる詩を描き、クラス全体で力をあわせて壁画を完成させる。
更にその2日後、ニューヨークの新聞一面には「想像してごらん、みんなが平和に暮らしているところを」とイマジンの一節の歌詞が載せられていた。この広告を作ったのがジョン・レノンの妻、オノヨーコさんだった。報復の声が多くなる中あえてこの歌詞を選んだ。オノヨーコは平和を求める声をニューヨークのタイムズスクエアに掲載した。ラジオにもリクエストが多くなった。当時多発テロから1カ月後、ニューヨークなどのクラブでイマジンをアレンジした曲がかかるようになった。この曲はビルボートでチャートインするほどのヒット曲になった。この曲を歌ったのはサー・アイバンで、46才になって初めて録音したデビュー曲だった。サー・アイバンの父、シギ・ウィルジックさんは16才の時にアウシュビッツ強制収容所に送られ生き延びた人物だった。戦後奇跡的に生き延びたシギさんはわずか数ドルを持ってアメリカに移住する。そして苦労を経て銀行の頭取になるというアメリカンドリームを果たした。アイバンが46才でイマジンを歌ったのも家族の歴史があったからだという。
サー・アイバンはアウシュビッツの生き残りの子供として、使命感を感じ、イマジンは今の若者の世界の見方を買える力を持つと話した。当時のことをデニスさんはラジオで振り返り、同時多発テロによって、曲の意味は変わってきたと話す。日本でも同時多発テロのあと、イマジンの歌の意味を考えるようになる。杉並区立西宮中学校では、4年前から英語の授業で取り上げられるようになった。藤原孝弘さんはオノ・ヨーコさんが新聞広告に載せたイマジンの一文について、子どもたちにも考えてほしいと思い授業に取り入れた。授業で知ったことに心を動かされた生徒たちは、オノヨーコにあてた手紙に書くことにした。生徒の石倉志織さんは、テロなどの悲しい出来事がある時こそ世の中に必要な曲だと思うと綴った。藤田良さんは、ジョン・レノンさんは死んでしまっているけれど、自身の心の中に残っていると話す。
金子奈生さんはジョンレノンさんが天国からヨーコさんを見守っているように、私達もヨーコさんを見守っていると書いた。斉藤潤さんは、当時はテロの報復に賛成していたが、しかしイマジンの曲を聴いたりすることで報復がただしいかわからなくなったと話した。船越七菜子さんはイマジンの曲を聴いて悲しくなり、平和を一人ひとりが心がければすごく簡単なのにどうしてか、私はもっと優しくなりたいと書いた。イマジンが生まれたときもアメリカはベトナム戦争で戦争の最中だった。アメリカでは戦争の反対運動が起こっており、そのシンボル的な存在になっていたのがジョンレノンとオノヨーコだった。2人はベッドで平和について話すベッド・インが行われていた。その中で生まれた曲がGivePeaceAChance。その後平和を願う一文を世界の主要都市に出すキャンペーンを行った。その時のメッセージが、君が望めば戦争は終わる。だった。こうした中ジョンレノンが思い描いた戦争のない世界がイマジンだった。このアルバムのデザインはオノヨーコが手掛けたものだった。
実はイマジンの歌詞にインスピレーションされたのもオノヨーコの詩集だった。この詩集の中に想像してごらん、が散りばめられていた。ジョンレノン直筆の作詞原稿には、「夢だと思うかもしれない。でも僕一人じゃないんだ」となる節は、ジョン・レノン最後まで遂行していた。イマジンの録音はロンドン郊外にあった自宅で行われていた。録音にはオノヨーコさんも関わった。デニスさんは60年代当時、ベトナム戦争により社会的、文化的な変化をもたらしたと話す。そうしたなかジョンレノンとオノヨーコは彼らなりにメッセージをイマジンで伝えたかったのではと振り返る。今回オノ・ヨーコさん宛に手紙を書いた生徒の親は、ちょうどビートルズ世代にあたる。西宮中学校の生徒、柴田真里さんは父がジョンレノンのファンだと明かした。ジョンと呼ばれている柴田義一は子供がジョンレノンについて学んだことについて、自身の好きなジョンレノンのことを話せる絶好の機会とおもった。
柴田義一さんは学生のころビートルズに夢中になり、バンドも組んでいた。柴田さんは建設関係の仕事に就いており、楽器にふれる機会も減った。柴田さんがイマジンを最初に聴いたのは、社会人になったばかりのこと。今も家路に帰る途中で聴いている。そしてイマジンの全詩集が流れた。イギリスで行わた好きな曲アンケートでは、イマジンが堂々の1位となった。デニスさんはこれについてイマジンの魅力はシンプルな歌詞で、誰もがわかる言葉で伝えている点だと話す。宗教がないということについて、重要なのは人々が分け隔てるものがあってはならないということにある。国境などをのりこえて一つになろうとイマジンは訴えているのではと話す。
1980年12月8日、ジョン・レノンが死亡した。その6日後、世界各地で追悼の集会が行われた。アメリカにあるセントラルパークでは10万人近い人で埋め尽くされた。10分間の黙祷のあと、イマジンが流れた。翌年1月、イマジンはヒットチャートに再登場、シングルとして初めて1位となった。その後戦争などが起きるたびに人々の心を捉えてきた。1991年の湾岸戦争。イギリスでは若者がジョンレノンの歌詞を掲げて反戦デモを掲げた。1996年にオリンピックが開催中にテロ事件がおきた。アトランタオリンピックの閉会式、スティービー・ワンダーが歌ったのがイマジンだった。2002年3月、ニューヨークは着実に復興へと進めていたが、中でも子どもたちの心のケアは大きな問題となっていた。ジョンレノンがよく訪れたストロベリーフィールズに集まったのはニューヨークに住む中学生。イマジンが伝えるメッセージを噛みしめることで傷ついた子供たちに未来への希望を持ってもらおうというイベント。
ゴードン・スキナーさんはイベントの中で、イマジンを生活に活かせる方法を生徒に訊ねた。生徒の中には人に酔って考え方の違いがあるという意見や、相手が何を思っているのかを考えるのではなく、その人がどのような人なのかを見るべきといった声があった。ゴードン・スキナーさんはこの歌詞を見て実際に行動して、生活にいかしたときに初めて世界を変えることができると生徒に伝えた。小林さんは一つの歌で世界を変えられるかについて、デニスさんは劇的に変える力はないかもしれないが、大勢の人が前向きなイメージを植え付けることができれば世界をより良く変えられる期待ができるのではと話した。小林さんはイマジンは嵐の中の灯台のような、希望の光だと話す。ボストンではイマジン・プロジェクトが進んでいる。街のあちこちにイマジンと大きく描かれた壁画がある。とある場所の壁画では子どもたちが想像した理想の世界の姿が描かれている。これは市を上げて取り組んでいるプロジェクトで、幼稚園から高校生がイマジンで始まる詩を描き、クラス全体で力をあわせて壁画を完成させる。