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「ゲゲゲの鬼太郎SP」 のテレビ露出情報

サミーのしくじりを狩野英孝が授業した。サミーは1950~60年代に食品会社として主に豆腐を販売。1970年代のインベーダーゲームブームに乗りゲーム業界に参入。1980年代にパチスロブームに乗りパチスロ業界に参入した。創業当時は板橋の小さな町工場で数十人ほどの会社だった。後からパチスロ業界に参入したことから、既存の企業を出し抜くため「業界初」のオリジナル開発にこだわった。パチスロメーカーは平均2年かけてパチスロ台を製作。公的な申請・認可を経て発売し、全国のパチスロ店に台を購入してもらい、その台の売り上げで利益を得る。サミーは2000年に業界初となる液晶搭載のパチスロ機「ゲゲゲの鬼太郎」を発売。今では当たり前となった液晶画面を搭載することで演出の幅を大きく広げた。サミーが行った主な業界初を紹介した。1999年「マックスボンバー」は業界初の8ライン搭載機、2000年「ゲゲゲの鬼太郎SP」は業界初のAT(アシストタイム)搭載機、2000年「ディスクアップ」は業界初のAR(アシストプレイ)搭載機だった。絶好調のサミーは会社を拡大。豊島区の大きなビルに移転した。2001年には社員数は500人に増加。全国パチスロ店に「サミーエリア」ができ、2000年3月期の売上は450億円を超えた(内パチスロで230億円)。しくじりはこの絶頂の中で起きた。とあるパチスロイベントでサミー社員は関係者から「サミーの台、何度も当たりが出せるバグがあるって噂だけど大丈夫?」と言われた。サミーの台のレバー部分に欠陥があり、当たりが何度でも出せるという噂がパチスロ関係者の間で出回っていた。パチスロ台の電気系統の接触不良が原因でシンプルなミスのため見落としてしまったという。当時サミーの台のほとんどで同じ欠陥が見つかった。社員はレバーをゆっくり倒す打ち方をする人はいないだろうと考え、事が大きくなる前になる早で対応しようと考えたが、インターネット掲示板の流行により、攻略打法として全国に拡散してしまった。企業のネット炎上の先駆けとなり、全国のパチスロ店から苦情が止まらない地獄のクレームタイムに突入した。1店舗あたり1日に数百万円の損害が出るほどだったという。週刊誌の記者も殺到し、不祥事発覚から3日後には全国のパチスロ店にあったサミー台エリアが封鎖となった。サミーの台はファンが多かったことからパチスロファンも大激怒する事態となってしまった。ファンの1人だった狩野英孝はパチスロで負けた原因をサミーの台が打てないせいだと逆恨みしていたと語った。事件の原因は斬新な「開発」を優先するあまり、「危機管理」が甘いことにあった。全国のパチスロ店と取引打ち切りの危機に瀕したサミーは営業社員がパチスロ店に謝罪し、社長も謝罪文を発表した。サミーの株価は3200円から1700円へ大暴落し、時価総額1200億円のマイナスとなった。ここまでの教訓は、不祥事の言い訳に「想定外でした」は通用しない。常に「最悪の事態」を想定しておこう。

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