- 出演者
- 澤部佑(ハライチ) 若林正恭(オードリー) 吉村崇(平成ノブシコブシ) 狩野英孝 岡田圭右(ますだおかだ) 藤江萌 ファーストサマーウイカ
狩野英孝が伝説のパチスロ機「パチスロ北斗の拳」を生み出した企業「サミー」のしくじりを授業した。スタジオメンバーはノブコブ吉村&ますだおかだ岡田がパチスロ経験者。吉村は「獣王」をやっていたと語った。狩野は好きすぎてパチスロ台を持っているという。サミーはパチスロ業界をリードする超大手メーカー。創業者・里見治の名前をもじって「サミー」。獣王、アラジンA、ディスクアップなどパチスロ史に残る超人気台を製造。2003年に発売した「パチスロ北斗の拳」が空前の大ヒット。未だに破られていない歴代最多62万台を売り上げた。
サミーは2001年に当たりを何度でも出せるバグが発覚して150億円の損失を出してしまった。絵柄を揃えて当たりを出した後、レバーをゆっくり倒すと一個前に出した絵柄が必ず出て、当たりをずっとコピーできることからコピー打法と呼ばれた。我が家・杉山がこの方法でかなり儲けたらしい。全国パチスロ店のサミー台エリアは封鎖され、社長が謝罪文を発表した。サミーの株価は3200円から1700円まで大暴落し、時価総額1200億円のマイナスとなった。この騒動には不祥事が起こった時にどう対応すべきか教訓が詰まっているという。
サミーのしくじりを狩野英孝が授業した。サミーは1950~60年代に食品会社として主に豆腐を販売。1970年代のインベーダーゲームブームに乗りゲーム業界に参入。1980年代にパチスロブームに乗りパチスロ業界に参入した。創業当時は板橋の小さな町工場で数十人ほどの会社だった。後からパチスロ業界に参入したことから、既存の企業を出し抜くため「業界初」のオリジナル開発にこだわった。パチスロメーカーは平均2年かけてパチスロ台を製作。公的な申請・認可を経て発売し、全国のパチスロ店に台を購入してもらい、その台の売り上げで利益を得る。サミーは2000年に業界初となる液晶搭載のパチスロ機「ゲゲゲの鬼太郎」を発売。今では当たり前となった液晶画面を搭載することで演出の幅を大きく広げた。サミーが行った主な業界初を紹介した。1999年「マックスボンバー」は業界初の8ライン搭載機、2000年「ゲゲゲの鬼太郎SP」は業界初のAT(アシストタイム)搭載機、2000年「ディスクアップ」は業界初のAR(アシストプレイ)搭載機だった。絶好調のサミーは会社を拡大。豊島区の大きなビルに移転した。2001年には社員数は500人に増加。全国パチスロ店に「サミーエリア」ができ、2000年3月期の売上は450億円を超えた(内パチスロで230億円)。しくじりはこの絶頂の中で起きた。とあるパチスロイベントでサミー社員は関係者から「サミーの台、何度も当たりが出せるバグがあるって噂だけど大丈夫?」と言われた。サミーの台のレバー部分に欠陥があり、当たりが何度でも出せるという噂がパチスロ関係者の間で出回っていた。パチスロ台の電気系統の接触不良が原因でシンプルなミスのため見落としてしまったという。当時サミーの台のほとんどで同じ欠陥が見つかった。社員はレバーをゆっくり倒す打ち方をする人はいないだろうと考え、事が大きくなる前になる早で対応しようと考えたが、インターネット掲示板の流行により、攻略打法として全国に拡散してしまった。企業のネット炎上の先駆けとなり、全国のパチスロ店から苦情が止まらない地獄のクレームタイムに突入した。1店舗あたり1日に数百万円の損害が出るほどだったという。週刊誌の記者も殺到し、不祥事発覚から3日後には全国のパチスロ店にあったサミー台エリアが封鎖となった。サミーの台はファンが多かったことからパチスロファンも大激怒する事態となってしまった。ファンの1人だった狩野英孝はパチスロで負けた原因をサミーの台が打てないせいだと逆恨みしていたと語った。事件の原因は斬新な「開発」を優先するあまり、「危機管理」が甘いことにあった。全国のパチスロ店と取引打ち切りの危機に瀕したサミーは営業社員がパチスロ店に謝罪し、社長も謝罪文を発表した。サミーの株価は3200円から1700円へ大暴落し、時価総額1200億円のマイナスとなった。ここまでの教訓は、不祥事の言い訳に「想定外でした」は通用しない。常に「最悪の事態」を想定しておこう。
業界史上最大のしくじりで絶体絶命となったサミー。騒動収束には(1)全国に置かれたスロット台の欠陥を修理、(2)パチスロ店との信頼回復という2つの問題があった。パチスロ台は風営法により許可申請をしなければ部品交換や修理などができず、申請書は1台ごとに必要。レバーの接触不良を直す部品を後付けで装着すれば修理できるが、修理が必要な台は全国1万3000店舗・32万台もあった。工場に発注していては時間がかかり過ぎるため、サミーは社員500人が総出となり手作りで部品を製作した。1個5円のパーツが500円に高騰する想定外の影響も出たが、6日で修正部品が完成。32万冊の申請書類も完成させ、社長自ら申請に出向き、1週間以内に部品を追加する許可を得た。この不祥事から得られる教訓は、不祥事が起こった際、まず大事なのは「スピード」。対応を先延ばしすればするほど致命的なダメージを受ける。
修理の目処は立ったが一番大事なのはパチスロ店との信頼回復。社長は全国のお店の損害を全て補償すると決断した。メーカーが補償するこは有り得ず、前例を作ると他メーカーから苦情が来る可能性もあったが社長は決断した。ここから得られる教訓は、仕事においては「赤字の回復」よりも「信頼の回復」が最優先。パチスロ店の信頼は回復できたが、サミーは150億円の赤字で倒産寸前となってしまった。誰も見たことのないような「業界初の斬新なスロット台」を作って150億円以上を売り上げてみせると意気込み、起死回生を賭けて発売したのが「キングキャメル」。2003年9月に発売され、広告費は3億円以上をかけた。高級ホテルのホールを貸し切って発表会を開催し、1億5千万円以上をかけテレビCMでもPRした。リールを使った超斬新な演出を詰め込んだスロット。業界初となるドリームリールを搭載し、リールの数が6個に増加したが、酷評の嵐だった。狩野英孝は演出があり過ぎてストレスだったと語った。スロットなのに目押しができず、リールの動きが複雑すぎて分からなかったという。売り上げ目標は7万台だったが、実際の売り上げは4万台だった。
サミーが2003年9月に発売した伝説のしくじりパチスロ台「キングキャメル」の斬新すぎるリール演出を映像で紹介した。その後に発売した台も軒並み不発となり、苦肉の策で発売した台が「パチスロ北斗の拳」だった。生みの親は当時28歳で入社5年目の沢田智さんだった。北斗の拳の大ファンだったという。ここまでにも何度か話題にのぼっていた人で狩野英孝の伏線回収に一同驚愕した。スタジオに来てくれた沢田さんにコピー打法騒動について聞くと「何が何だかわからなかった」と語ってくれた。北斗の拳は1983年に週刊少年ジャンプで連載が始まり、今年で40周年。単行本は1億部超の大ヒットコンテンツ。狩野はパチスロがきっかけで北斗の拳を知ったという。5万台が目標だったが、パチスロ史上最高となる62万台を売り上げた。この記録は未だに破られていない。2500億円を売り上げ、サミーはパチスロ業界のトップメーカーとなった。北斗の拳シリーズは今でも最新機種が発売される大人気台となった。
サミー復活劇から学ぶ教訓は、不祥事が起こった時こそ、お客様を最優先に「自分たちに何が求められているか?」と考えよう。不祥事の後の言い訳は禁物!誠実で迅速な対応が信頼回復への近道。
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