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「コソボ」 のテレビ露出情報

コソボ・ハイダルドゥシィ通り。約25年まえ、右田千代ディレクターはこの地に住む人たちに出会った。通りは様変わりしていた。右田千代はある家族の家を探した。
右田千代がその家族と出会ったのは25年前、1999年にコソボ紛争を取材していたときのこと。異なる民族が共存していた旧ユーゴスラビアの自治州だったコソボ。民族主義が高まる中で、多数派のアルバニア人とセルビア人の対立が激化。セルビア人の政府が独立を求めるアルバニア人を武力で弾圧した。するとアメリカ主導のNATO軍が人道的介入としてセルビア側を空爆。国連の承認がないままの武力行使だった。セルビア側は強く反発し、アルバニア人を国外に追放し、80万人以上が難民になった。中でも心に残ったのは、ラマダン・レパヤさんと母・ハティジェだった。家族の安否が分からなままだった。18歳だったラマダンは兄のように慕っていたいとこをセルビア人に殺され家には火を放たれたという。極限状態の中でもラマダンは人のために寝る間も惜しんでテントを建てていた。3ヶ月後、NATOの支援で勝者となったアルバニア人は故郷コソボに帰った。戦争で受けた傷を乗り越えて、幸せになってほしい。ラマダンの笑顔が見たい。それが長く続くコソボ取材の始まりだった。コソボ・ハイダルドゥシィ通りにラマダンはいた。故郷の家を壊され、セルビア人の家を奪って暮らしていた。笑顔はなかった。それどころか思いも寄らない重荷を背負っていることを知った。セルビア側に抵抗し、武装闘争を行ったコソボ解放軍。難民になる前、ラマダンは兵士だった。自分も傷を負い、病気になって軍を追い出され難民となったという。戦争に勝利しても尚、隣人だったセルビア人に強い思いを抱いていた。
その後、独立を宣言したコソボ。現在はアルバニア人が実権を握っている。憎しみを忘れられないと苦しんでいたラマダンはそれからどうしているのだろうか。母・ハティジェに連絡がつき、ラマダンが今暮らす場所を教えてもらった。刑務所のすぐとなりだった。戦争で負傷した人などのための安価の高齢住宅。ラマダンは不在で、母・ハティジェを訪ねようとした時、ラマダンから「我々に関わるな 取材する権利はない」というメッセージが届いた。理由を尋ねたが返信はなかった。母・ハティジェを訪ねた。20年前より憔悴した様子だった。ハティジェは、ラマダンが電話をかけてきた、突然捕まったという、保釈金を払わないと刑務所で過ごすことになるという。今日の朝知ったという。ラマダンはドイツで不法就労で捕まっていた。コソボでは仕事がなかったという。ハティジェは、ラマダンはキャンプにいたときとは変わってしまった、今はいつも苛立っているなどと明かした。ハティジェは今世界で続く戦争に当時の記憶を呼び覚まされていた。ハティジェは「私はセルビア軍が銃で人を殺すのをこの目で見た 殺すのは誰でも良かったのです」などと明かしていた。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月30日放送 1:36 - 3:47 NHK総合
隣人たちの戦争〜コソボ“憎しみの通り”の25年〜(隣人たちの戦争〜コソボ“憎しみの通り”の25年〜)
今、コソボのセルビア系住民は限られた地域に集まって暮らしている。コソボ北部にあるセルビア系住民の居住地域は、川を挟んでアルバニア系住民の暮らす地域と接している。25年間何度も衝突が起き、今も緊張は続いていて分断の町と呼ばれている。セルビアはロシアを後ろ盾にしていて、ロシアのウクライナ侵攻はここでの対立にも影を落としている。コソボのセルビア人はこの25年間で3[…続きを読む]

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