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「サイパン島」 のテレビ露出情報

1941年、太平洋戦争が開戦。直後、破竹の勢いで占領地を広げていった日本。しかし、わずか半年後、ミッドウェー海戦を期に太平洋で敗北を重ね、勢力圏を縮小。死守すべき領域として絶対国防圏を設定した。開戦以来、日本の勝利を信じていた主婦・金原まさ子(33)。その頃、アメリカでは最新の戦略爆撃機B-29。それまでの爆撃機の能力をはるかに凌ぐものだった。その出撃拠点として狙っていたのが、絶対国防圏の要衝としていたサイパン島。当時、サイパンは日本の委任統治領。沖縄本島のわずか10分の1の小さな島で約3万人の日本人が暮らしていた。サイパン高等女学校の佐藤多津(14)はサイパン島は日本の防波堤なのだから日本軍が放置するわけがないと信じていた。6月11日、アメリカ軍は圧倒的戦力で多津が暮らす島南西部から上陸を始めた。多津が暮らしていた街は瓦礫の山と化した。民間人は軍に協力することを求められ、敵に投降してはいけないと教え込まれていた。多津の家族は背走する日本軍と共に北へと逃げていくことになる。危機に陥った絶対国防圏の要衝・サイパン島。この時、日本軍は太平洋の防衛に戦力を割けない理由を抱えていた。中国大陸で50万人以上の将兵が激戦を続けていたからだ。7月7日、日本軍の組織的抵抗は終わり、将兵4万人が戦士。民間人の死者は1万人にのぼった。
福岡県の商業学校を卒業後、徴兵された大下敏郎(23)。銃後には報じられなかった戦場の現実を密かに綴っていた。大下が見た戦場を記録した写真も見つかった。突撃していく日本兵たち。粘り強く抵抗を続ける中国軍に苦戦を強いられていた。写真には駅の前で爆撃を受けて亡くなった中国の人々が写し出されている。日本軍は中国大陸に戦力を割いたまま太平洋でアメリカと対峙していた。この年の6月、サイパンではほとんど雨が降らなかった。親子3人でジャングルを彷徨っていた多津。水を求めて山間の水源地を目指すが、この水源地を狙ってアメリカ軍が攻撃を加えていった。追い詰められた多津の家族は島の北部にあった洞窟に逃げ込む。そこは兵士や民間人でひしめき合っていた。ここで生死の選択を突きつけられた住民もいた。アメリカ軍の攻撃で大けがを負った小村ミサキ(34)。夫の末松(36)がその時のことを手記に残している。「いよいよ最後だ 『ここで残って自決するか』 妻に聞く 『歩けるだけ歩いて生きられるだけ生きます』と言う」。アメリカ軍上陸から3週間、島のほぼ全域を制圧しつつあった。「万事休す 断崖の上に立ち遥か彼方の海を眺めながら最後の一本のたばこをのんだ 月見島がすぐ下に見える 『飛び込むんだ』 妻を押して私も飛び込んだ」。しかし、末松は死にきれず、ミサキは瀕死の重傷を負う。「息遣いも荒いし目もとろんとしている 17時 永眠」。7月7日、日本軍の組織的抵抗は終わり、将兵4万人が戦士。民間人の死者は1万人にのぼった。
本土空襲が迫る中、国民に大移動が呼びかけられた。学童集団疎開。46万人の子どもが親元を離れて地方での避難生活を余儀なくされた。学童集団疎開の日々を綴った80年前の記録が見つかった。久保田栄子(90)は小学4年生の頃に学童集団疎開を経験。東京の郊外に疎開した。国民の間にあったこの戦争に勝つという確信が揺らぎ始めた。総理大臣として国民に総力戦を求めてきた東條英機が退陣。国の指導者たちは絶望的な戦局の中でも引き返すことはなかった。
東京・武蔵野市。飛行機製造の中枢・中島飛行機があり、かつてここに東京中から学生が集められた。戦争を継続するため、前年の倍の生産を求められた。学生らしい時間を過ごす余裕は次第に消えてゆく。一日12時間勤務や徹夜の作業を課せられることも頻繁になった。アメリカとの決戦を目論む軍指導部は一線を越えた作戦に出る。特攻だ。軍はこの特攻にもう一つの狙いを持っていた。出撃直前の若者の姿を記録し、ニュース映画やラジオで繰り返し報じた。サイパン陥落後、不安やいらだちを覚えていた国民を奮い立たせようとした。空の特攻が始まった翌月、新たな特攻部隊が生まれた。海軍が魚雷を改造して開発した人間魚雷・回天。搭乗員は直径1mの空間の中、外が見えない状態で敵艦に突撃。極秘の訓練施設に10~20代の若者1400人が集められた。出撃命令を受けた若者の120通にわたる手紙が発見された。今西太一(25)は慶應義塾大学卒業後、海軍に入隊。国際貿易や英語などを学び、世界を舞台にした仕事に就くのが夢だった。手紙で今西は父にある望みを打ち明けていた。11月8日、今西は太平洋へと向かった。父と妹に向けた遺書を残している。11月20日午前4時54分、今西の回天が潜水艦から出撃。51分後、大きな爆発音がしたと記録に残っている。特攻作戦での死者は約6000人とされるが、正確な人数は分かっていない。
アメリカ軍がサイパンを占領して3か月。日本本土まで飛行可能な新型爆撃機・B-29が配備された。島のジャングルでは多津が両親と身を潜めていた。ある日、父・三郎がアメリカ軍が投降を呼びかけたビラを手にする。アメリカ軍は投降を呼びかけても応じない日本人に猜疑心を募らせていく。用足しをするため、避難場所から10mほど離れた時、母・とよがアメリカ軍に撃たれた。母の遺体をジャングルに残したまま、多津は父と2人で逃げ惑った。1か月後、再びアメリカ軍の襲撃を受け、父・三郎も命を落とした。その後、多津はアメリカ軍に捕まり収容された。手元には両親の遺髪だけが残った。
1944年11月1日、サイパンを飛び立ったB-29が初めて東京の空に姿を現した。この日を境に昼夜を問わない警報が日常となっていく。しかし、警報は鳴ってもなぜかB-29は爆弾を落とさない。アメリカ軍は爆撃目標を絞りつつあった。飛来していたのは写真偵察機だったのである。全国各地の軍事施設を撮影し、ジオラマまで作って攻撃をシミュレーションしていた。東京・武蔵野市の中島飛行機が標的に決まった。女学生の川田文子(19)は工場で勤務中だった。この日以降、連日B-29が飛来する中でも文子たちの勤務は続いた。12月3日、文子は同級生と工場の食堂にいた。工場一帯に566発の爆弾が降り注いだ。文子のいた工場では125人が亡くなった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年4月8日放送 8:14 - 9:50 フジテレビ
サン!シャイン(ニュース)
雨が降る中、天皇皇后両陛下が花を手向けられたのは、小笠原諸島・硫黄島にある慰霊碑。東京都心から約1200kmの硫黄島。太平洋戦争末期、アメリカ軍との激しい地上戦が繰り広げられた。旧日本軍約2万2000人・米軍約7000人・軍属として島に残った島民82人が犠牲になった。今年は戦後80年となる節目の年。両陛下は戦没者慰霊のため沖縄・広島・長崎なども訪問予定。慰霊[…続きを読む]

2025年4月7日放送 15:49 - 19:00 TBS
Nスタ(ニュース)
午後1時前、天皇皇后両陛下が硫黄島を訪問された。太平洋戦争で激しい地上戦が行われた。犠牲者は日本側が約2万1900人。アメリカ側が約6800人。当時暮らしていた島の住民も軍属として犠牲になった。両陛下は今年、沖縄や広島、長崎への訪問が調整されていて、硫黄島訪問が最初の「慰霊の旅」となる。1994年に今の上皇ご夫妻が日程都合で訪問できなかった硫黄島島民平和祈念[…続きを読む]

2025年3月1日放送 16:45 - 17:58 NHK総合
カラーでよみがえる映像の世紀(映像の世紀)
サイパンで日本が敗れたのと同じ頃、ヨーロッパでも戦争の勝敗を決定づける戦いが行われようとしていた。1944年6月、連合軍のノルマンディ上陸作戦である。後にこの作戦は史上最大の作戦と呼ばれ、圧倒的な物量の前にドイツ守備隊は降伏、第二次大戦の勝敗の行方は明らかになった。

2025年2月5日放送 22:00 - 22:45 NHK総合
歌人 美智子さま こころの旅路(歌人 美智子さま こころの旅路)
美智子さまは北朝鮮から帰国した拉致被害者2名に会うと題した歌を新歌集におさめられた。平成30年、皇后として最後の誕生日の際にも拉致問題に言及されている。また、上皇さまとともに太平洋戦争の激戦地にも足を運ばれ、鎮魂と祈りを捧げられた。92歳の佐崎美加子さんは4歳で北海道からパラオに渡り、13歳のときに引き揚げてきた。上皇さま、美智子さまと歓談したことがあり、涙[…続きを読む]

2024年12月29日放送 7:00 - 7:15 NHK総合
ニュース(ニュース)
昭和20年8月15日に終戦を迎えた先の大戦で、沖縄では激しい地上戦が行われ20万人以上が犠牲になり、広島と長崎では原爆投下によって、その年だけで21万の命が失われた。戦後80年となる来年、天皇皇后両陛下は恒例行事の「国民文化祭」で、9月に長崎県を訪問する見通しで、関係者によると、滞在中に原爆の犠牲者の霊を慰められるという。また、戦没者の慰霊などのため、広島県[…続きを読む]

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