昨シーズン、前人未到の50-50を達成した大谷翔平。2013年、日本ハムに入団した当初は二刀流は不可能、プロをなめるなと疑問視する声があった。監督だった栗山はその批判に一切耳をかさなかった。栗山はその時の決意を覚えている。選手のために命を張ると言い切る原点。栗山は少年野球の監督だった父の影響で小学1年のときに野球をはじめた。エースで4番、中学時代には地元では知られた存在だった。しかし、高校・大学では目立った活躍はできなかった。それでもプロへの夢はあきらなかった。22歳でヤクルトの入団テストを受け、合格。しかし、プロの世界は甘くなった。そんな時に声をかけてくれる人がいた。二軍監督の内藤博文。内藤は栗山と同じテスト生あがりながら、1軍でレギュラーとなった努力の人だった。自分の可能性を信じてくれる存在は大きかった。栗山は地道な努力を重ね、やがて1軍に呼ばれ活躍の場を広げていった。そんな矢先にメニエル病が襲う。試合中に激しいめまいと吐き気に襲われた。入団から7年後、栗山は引退を決めた。一人前になれなかったトラウマはいまだにあるという。栗山はその後、キャスターとしてスポーツの面白さを伝える道に進んだ。球団経営も取材し、選手時代には見えていなかった野球の魅力に改めて気づいた。50歳のとき、北海道日本ハムファイターズの監督に就任。指導者としての経験がゼロだった栗山に心無い言葉がぶつけられた。栗山は自分より現場を知ってる人をとことん信じてみようと決めていた。今いる優秀なコーチとともに進みたいと対話を重ねて教えを乞うた。選手の傍らに立ち声をかけつづけた。期待されながらも3年間1勝もできなかった吉川光夫投手にも声をかけ続けた。自分がそうしてもらったように。吉川はその年14勝をあげMVPに選ばれた。