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「セゾングループ」 のテレビ露出情報

1977年。ダイエーは破竹の勢いで店舗を増やしていた。徹底した安売りで周囲の店から客を奪っている状況だったという。創業者の中内功は消費者都合を徹底させていた。こうした考えに至ったのはアメリカ視察にあったという。中内功は大量に製品を仕入れることで大幅な値引きを実現していった。そして1980年に売上高1兆円を達成した。
この頃、全く違う方法で快進撃を続ける経営者がいた。それがセゾングループの堤清二だ。堤清二の父の堤康次郎は戦前から莫大な財を築いていた。しかしそんな父に堤清二は冷ややかで、父の遺産を堤清二は受け継がず、弟の堤義明が受け継いだという。堤清二は西武百貨店などのグループの中核ではない企業の経営を任された。さらに堤清二は、渋谷を作り変えるということも行っており、西武百貨店の進出やパルコを開業させたりして、渋谷は高感度な若者が集まる街になった。そして1982年に西武百貨店本店は売り上げ日本一を達成した。
そして東の西武、西のダイエーと両者は並び称されるようになり、お互いを意識し合うようになったという。そして1985年にプラザ合意をすることによって円高になり、バブル景気につながっていった。そのため株式投資や不動産投資をする人が増えていった。この頃、ダイエーは事業を拡大させており、本業のスーパーは毎年売上高を1000億円ずつ増加させていった。そして1988年にダイエーは球団を買収することになり、開発事業はさらに増えていった。
同じ頃、堤清二も不動産開発に乗り出していた。セゾングループは最盛期にはグループ企業150社以上、売上総額は4兆円超にもなっていったという。そしてリゾート開発などに力を入れていった。
1989年。バブルは絶頂を迎えた。日経平均株価は最高値を達成した。しかし年が明けると株式相場は大きく崩れて、わずか4か月で日経平均は1万円も値を下げた。ただダイエーは強気な姿勢を崩さなかった。そうした中で売り上げは減少し、阪神・淡路大震災で大きな被害が生じた。堤清二も苦境に立たされた。西武百貨店の売り上げは半減していた。リゾート事業も赤字になり、地価は下落し、日本はデフレ不況に陥っていった。そして2001年にセゾングループは消滅した。ダイエーの中内功もグループを縮小し、2001年に中内功は退任した。そして2005年に球団をソフトバンクに売却し、その8ヶ月後に中内功は死去した。
堤清二は経営から離れてからは作家活動に専念した。堤清二は「私の不動産ビジネスは、あれだけ反発していた父親の強引なやり方をいつの間にか真似していたと悔恨の情に駆られている」と語ったという。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年12月28日放送 3:20 - 4:59 NHK総合
BS1スペシャル独占告白 渡辺恒雄〜戦後政治はこうして作られた 昭和編
読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄にインタビュー。この時93歳だが、社論の方針や重要事項を自ら指示。中曽根康弘元総理大臣とは昵懇な関係に。自らの墓碑銘も中曽根に書いてもらったそう。番組では、渡辺へ複数回にわたりロングインタビュー。
読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄にインタビュー。初日は2019年11月22日。生まれは1926年。11歳で日中戦争が始まり、[…続きを読む]

2024年12月26日放送 13:40 - 14:40 テレビ東京
プレイングマネジャーの勇断〜トップへの岐路〜(プレイングマネジャーの勇断〜トップへの岐路〜)
クリスピー・クリーム・ドーナツ復活の立役者・若月貴子。新卒で入社したのは西友だった。ファミリーマートや無印良品も元は西友の事業として誕生。バブル崩壊後、業績は低迷。そんな中会社の再建に向け奮闘していた一人が若月だった。若月は入社3年目には海外事業の精算や子会社の売却といった業務を担当。慣れない仕事のストレスからか会社で吐血し十二指腸潰瘍と診断され1カ月の入院[…続きを読む]

2024年10月21日放送 22:00 - 22:45 NHK総合
映像の世紀バタフライエフェクト(映像の世紀バタフライエフェクト)
1977年。ダイエーは破竹の勢いで店舗を増やしていた。徹底した安売りで周囲の店から客を奪っている状況だったという。創業者の中内功は消費者都合を徹底させていた。こうした考えに至ったのはアメリカ視察にあったという。中内功は大量に製品を仕入れることで大幅な値引きを実現していった。そして1980年に売上高1兆円を達成した。
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