昭和55年、12月返品の山は増え続けていた。重松俊文は湯がみずになる原因を突き止めた。ヒーターの電熱線が切れていた。修理のためメンバー総出で全国を回った。罵声を浴びながら電熱線を変えたという。重松俊文は新型ヒーターに打ち込んだ。すると連続3000時間38度のお湯を出し続けた。こうして商品は完成した。宣伝をやらせてくれと名乗り出たのは岩塚守男。10年前、雑誌と新聞から、おしりはタブーと広告を拒否された。岩塚はテレビCMにかけることにした。命運を託したいと思ったのはコピーライターの仲畑貴志。岩塚は仲畑貴志のもとを訪れ商品説明を始めた。しかし商品価値がピンとこないと言われてしまった。すると池永は青い絵の具を自分の手に塗りつけ、この絵の具を紙で拭いてくれといった。仲畑が拭くも汚れは落ちない。池永は「おしりだって同じ水で洗えば綺麗になる。常識への戦いなんです」と仲畑に言った。仲畑は担当することになり4ヶ月後、「おしりだって洗って欲しい」とコピーを発表した。CM放送日、岩塚は放送時間をよる7時台に絞った。一家団欒、食事の時間。宣伝課にはクレームの電話が相次いだ。岩塚は「排泄も食事と同じくらい尊い行為。自信と誇りを持って作っています」と相手に説明。1ヶ月後、クレームの電話はゼロになった。新型便座の名は日本中に広がり、全国から注文が殺到、10万台を超える大ヒット商品となった。