- 出演者
- 国井雅比古 膳場貴子
東京・渋谷区にあるアスレチック遊具のような建物はトイレだった。渋谷区内の公共トイレをめぐるツアーも登場。トイレ目当てに訪れ外国人観光客もいる。世界が注目する日本のトイレだが、かつては散々なものだった。そんなトイレに革命を起こした人々の物語を伝える。
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- 渋谷区(東京)
サラリーマンやOLが悩むオフィス仕事の大敵が痔。もっとも辛いのはトイレ。22年前、若者たちがトイレ革命に挑んだ。これは世界商品となった革命トイレに挑んだ技術者たちのドラマである。
オープニング映像。
国井雅比古が最新のトイレのショールムにやってきて、介護用トイレなどを紹介した。ハイテクトイレの原点となったのが温水洗浄便座。
昭和45年、日本は高度成長真っ只中、マイホームを求め空前の住宅建築ラッシュが起きていた。その波に乗った会社が北九州にあった東洋陶器(現在のTOTO)。地方のハンディを乗り越え住宅に納める水回り製品のトップメーカーに躍り出た。主力商品はトイレで新商品を次々と発表。開発の先頭に立つ設計課のエース本村久、当時36歳。「トイレの鬼」と呼ばれていた。本村は東京の大学で水力学を専攻、水回りのライン設計ができるとこの会社を選んだ。しかし配属されたのは水洗トイレの金具設計課。「たかがトイレ」と甘く見た。自信満々で設計図を引いたがそれを見た工場長が破り捨てた。金具工場長の杉原周一はかつて世界に名をとどろかせた技術者。戦前、三菱重工で戦闘機のエンジンにガソリンを送る特殊燃料噴霧装置を世界で初めて開発。戦後は平和産業にと、この会社に身を投じていた。杉原は「トイレは人の暮らしを支える尊い商品だ。誇りを持って取り組め」。本村の目が覚めた。昭和45年春、会社のイメージアップのため広告が作られ最新トイレを全面にデザイン。担当は宣伝課の岩塚守男。雑誌に掲載を頼んだが「便器は汚い尻をイメージさせる。雑誌の品位が落ちる」、大手新聞社「トイレはご不浄でしょう」と掲載を拒否された。岩塚守男さんは「我々が日々毎日やってる仕事に対することを否定されたような」などと話した。
間もなく会社を危機が襲った。2度のオイルショックで住宅着工戸数が激減、水回り製品は売れなくなった。ある日本村は取締役に呼ばれ「会社を救うためこれを開発しろ」。それは14年前大問題となった米国製の欠陥商品。お湯でお尻を洗う医療用便座だった。発射されるお湯は温度も方向も不安定。遠藤周作に書かれた。「ものすごく熱いお湯。一度しか使わないこんなもの」。本村は職場に戻ると4人の部下に相談。若手の重松俊文が「やりましょう。うちのおやじは痔で苦しんでいる」と話した。父の明久は毎朝トイレにお湯を持ち込んでいた。痔に苦しむ日本人は3割。ビジネスマンやOLの大敵だった。本村は「この商品ができればトイレのイメージを一新できる。仕事への誇りを若手も持てる。やってみよう」。昭和53年12月、プロジェクトが動き始めた。本村はとんでもない行動に出た。社内を回り「パンツを脱いで実験に協力して下さい」と頭を下げてお願いした。お尻に当てるお湯の温度。何度なら快適に感じるのか、どこに当てればいいのか、男女300人のデータが必要だった。若手技術者の池永隆夫が手を挙げた。
葛飾北斎が描いた江戸時代のカワヤの様子を紹介。トイレは昔から「えんぽう」「ごふじょう」「はばかり」などいろいろな呼び名があった。トイレのイメージを覆したいという願いが温水洗浄便座に込められていた。
昭和54年1月、男たちのトイレ実験は続いていた。1日16時間交代でお湯を浴び続けた。池永は試作機を持ち帰り妻に頭を下げた。社員たちは1人また1人と実験に協力してくれるようになった。女子社員120人も参加。4ヶ月後データがまとまった。噴射口担当の飯田正己はどうすればお湯を的にあてられるか試行錯誤を続けた。ある日、車でアンテナが伸びるのを見た。便座から一直線に伸びるノズルを設計し先端に噴射口を取り付けた。お湯の角度の実験も繰り返し43度に傾いた時、どんなおしりでも確実にあてることができた。最大の壁はお湯の温度を38度に維持するシステムの開発だった。重松はICの回路づくりに没頭した。雨の日、信号を見てなぜ風雨にさらされても正確に点滅を繰り返すのかということに疑問を持った。製造メーカーに問い合わせるとICをトクシュな樹脂をコーティングする技術をもっていた。メーカーは重松に協力してくれた。こうして恐れいていて漏電を克服した。昭和55年6月、温水洗浄便座が完成、ウォシュレットと命名され販売が始まった。3ヶ月後、本村は営業に呼び出された。廊下には返品されたウォシュレットの山が出来ていた。温度制御システムがなぞの故障。温水が冷たい水に変わったという。
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岩塚守男は「新聞は国民の皆様の常識を代表しているようなもんなので、その新聞からトイレを拒否されたことは、我々にとっては一番、悔しい思いをした。このイメージを払拭しないといけないと思った」などと話した。
昭和55年、12月返品の山は増え続けていた。重松俊文は湯がみずになる原因を突き止めた。ヒーターの電熱線が切れていた。修理のためメンバー総出で全国を回った。罵声を浴びながら電熱線を変えたという。重松俊文は新型ヒーターに打ち込んだ。すると連続3000時間38度のお湯を出し続けた。こうして商品は完成した。宣伝をやらせてくれと名乗り出たのは岩塚守男。10年前、雑誌と新聞から、おしりはタブーと広告を拒否された。岩塚はテレビCMにかけることにした。命運を託したいと思ったのはコピーライターの仲畑貴志。岩塚は仲畑貴志のもとを訪れ商品説明を始めた。しかし商品価値がピンとこないと言われてしまった。すると池永は青い絵の具を自分の手に塗りつけ、この絵の具を紙で拭いてくれといった。仲畑が拭くも汚れは落ちない。池永は「おしりだって同じ水で洗えば綺麗になる。常識への戦いなんです」と仲畑に言った。仲畑は担当することになり4ヶ月後、「おしりだって洗って欲しい」とコピーを発表した。CM放送日、岩塚は放送時間をよる7時台に絞った。一家団欒、食事の時間。宣伝課にはクレームの電話が相次いだ。岩塚は「排泄も食事と同じくらい尊い行為。自信と誇りを持って作っています」と相手に説明。1ヶ月後、クレームの電話はゼロになった。新型便座の名は日本中に広がり、全国から注文が殺到、10万台を超える大ヒット商品となった。
温水洗浄便座について岩塚守男は「これは我々より使い手のほうが、そういう商品を望んでいたということをつくづく感じた」などと話した。重松俊文は「トイレをリビングみたいに快適な空間にしたいということで、ますます私たちの仲間が今、いいものを作っている」などと話した。
温水洗浄便座の開発から22年。機能はさらに充実。日本の家庭の5割に取り付けた。今やインテリア売り場に置かれている。世界20カ国に輸出。デジカメ、ウォークマンに並ぶ、日本が誇る世界承認になった。重松俊文は1号機を痔に苦しんでいた父に届けた。本村久は平成6年に定年を迎えた。最後の日、工場を訪れた。
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エンディング映像。
トイレの未解決のテーマの1つがニオイ。山本政宏さんは30年ニオイと向き合ってきた。日本のみならず海外にまで出向き、ニオイを分析。その研究はニオイを抑える除菌水が出るトイレの開発にもいかされた。しかし道のりはまだまだだという。
新プロジェクトX〜挑戦者たち〜の番組宣伝。