- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 助川成也 山田隆基 村石信之
タイを流れるチャオプラヤ川。今から11年前、未曾有の豪雨が襲い、ダヤかな流れは突如牙を剥いた。ここは数多の日系企業が生産拠点を移していた心臓部。ニコンはここでカメラの9割を製造。日東電工で作っていた基盤など、全てが水没した。この緊急事態に立ち上がったのは現地工場のリーダーたちと、職場を第2の家と大切にしてきたタイ人たちだった。これは国境を超えて聞きを乗り越えてきたものたちの知られざる総力戦の物語。
オープニング映像。
有馬嘉男はタイ・アユタヤにあるロジャナ工業団地にやって来た。ここはタイで最も大きな工業団地の1つ。世界から200以上の企業が来て工場を構えている。その半分が日経企業になる。
1980年代後半。日本は空前の円高に沸いていた。海外旅行ブームが到来、国際線の年間旅客数は1000万人を突破。一方輸出に頼る製造業各社は苦しんだ。活路となったのが人件費の安い東南アジアへの工場移転。中でも世界有数の工業団地へと発展を遂げたのがタイ中部のロジャナ。150近い日系企業が進出し雇用5万人。一角にあるニコンでは現地社長の村石信之が張り切っていた。主力製品であるカメラの実に9割を生産。この工場の技術力を聞きつけぜひ率いてみたいと志願してやって来た。ニコンのそばの沖電気。社員からお父さんと慕われる名物社長、山田隆基がいた。目指していたのは第2の家のように助け合える会社。社員は1000人。自動車や腕時計に使われる半導体を生産。スタッフは全員新卒で採用し3年で管理職になれるよう丁寧に育ててきた。この会社に1期生として入社したコンサックはあまたの会社を蹴って入社した。入社2期生のシリヌッチは山田のアットホームな空気に居心地の良さを感じていた。
2011年秋。山田たちの工場が別会社に売却されラピスセミコンダクタとなった矢先、タイ北部を立て続けに3つの台風が直撃。タイ北部はチャオプラヤ川の上流域。大雨に備え黒部ダムの60倍という巨大ダムが建設されていた。しかし10月5日、大雨で貯水量が限界に達し1億トンの放水が始まった。赴任して8年、初めて聞く異常事態にニコンの村石は胸騒ぎを覚えた。100年に一度の洪水、ダムの放水から5日。ついに周辺に防水対策を施したロジャナ工業団地でも浸水。僅か1日で洪水は150社の工場を飲み込んだ。ニコンの村石信之は言葉も出なかった。カメラの生産ラインが壊滅、会社は主力製品を出荷できなくなった。従業員3000人、オーディオ機器など年間800万台を出荷していたパイオニアの青柳篤は半年前に日本で東日本大震災を経験したばかりだった。その時敢然と立ち上がったのは山田隆基。タイで一から工場を立ち上げた先代の社長にたたき込まれたリーダーの心得「ぶどうの理論」。「ぶどうだ棚からぶどうを取ったら誰かに渡せ。いつでも自分の手は手ぶらにしとけ。手ぶらにちといて有事の時に先頭に立って戦え」。それが「ぶどうの理論」だった。山田は工業団地の管理事務所へ。そこは殺到する経営者でごった返していた。山田は居合わせた村石と青柳に「政府に救援を呼びかけよう。企業を超えて結束するんだ」。3人が目指したのは南に80キロ首都バンコクだった。
山田隆基さんは「過去に多くの自然災害を受けてるけども、このような衝撃的な自然災害は初めてだった。これから自分1人では何もできないので仲間と支え合うしかないと思った」などと話した。
山田たちが飛び込んだのは日系企業を海外で支援するジェトロ(日本貿易振興機構)。山田たちは日系150社の窮状を訴えた。助川は即座に全面支援を約束。最優先は各企業の従業員の暮らしをどう支えるか。家が水につかり仕事が止まった彼らの生活を支える給与補償が必要だった。ただちに助川がタイ政府に働きかけ助成金を引き出してきたが半導体や電子部品などの供給が止まったことで日本でも生産停止が連鎖、莫大な損失が出始めていた。山田たちの解決策は大胆なものだった。水没した工場の生産ラインを一時的に日本に移すしかない。そのためにはここにしかない重要機材を泥水の中から回収し日本に送らなければならないが難題があった。ラインを動かすにはタイの熟練工たちも派遣する必要がある。助川が日本大使館や法務省に相談すると「日本に送った労働者が行方をくらまし不法滞在につながるおそれがある。このようなケースで就労ビザを出すのは50年たっても無理だろう」と厳しい返事が返ってきた。水没した工場で決死の作業が始まった。水に飛び込む覚悟を決めたのは山田の部下、工場長の大岡文彦。一緒に突入したタイ人たち。危機の中でなぜか笑顔を浮かべていた。コンサックさんは「タイにはこんな言葉がある。笑顔で闘おう。問題が起きたら闘いながら笑顔になろうという意味。笑顔は人を幸せにする。たとえ笑顔の人自身が苦しんでいたとしても、ネガティブなことは言わない。みんなで助け合った」などと話した。
同じ頃、ニコンの工場でも苦闘が続いていた。製造の要である金型を回収したいが泥水の深さは2メートルに達していた。その時村石のもとに強力な助っ人、タイのリゾート・パタヤでダイビングインストラクターを束ねる親分ソンマイが駆けつけた。20人の仲間と共に果敢に飛び込んだ時、ワニに遭遇。しかしソンマイたちがおじけづくことはなかった。僅か2週間で重さ200キロの金型100個以上を回収。仕事のあとソンマイは相場の3分の1の報酬しか受け取ろうとしなかった。「残りは被災した従業員のために使ってほしい」とのことだった。だがそのころ洪水は他の工業団地にも拡大し450の日系企業が水没。このままではどの会社も行き詰まってしまう。山田は社員の暮らしを案じていた。シリヌッチは高齢の姉3人を1人で養っていた。社員1000人が暮らす第2を家を守れるか、山田は泥水を睨んでいた。
泥水を睨んで何を考えていた?という質問。山田隆基さんは「自分たちが、泥水とそう闘うのか、どうしたら答えが見つかるのかと。やっぱり泥水と会話するしかない」などと話した。タイ人の笑って闘うんだという言葉について村石信之さんは「家庭も水に浸かっている写真を送ってきて、見ても笑ってピースしている。たくましさを感じたし、徹夜で工場を守ってくれる人もいた。それを見て絶対にこの工場は復活させるって思いが強くなった」などと話した。
工場水没から2週間。ジェトロの助川は山田たちを呼び「派遣したタイ人が日本で行方をくらます恐れについてどうお考えか」と訪ねた。山田は「我々は皆家族。そんなことは絶対に起きない」と返した。助川は再び政府との交渉に入った。粘り強い交渉が続いた10月末、ラピスで派遣団のリーダーとなったのはシリヌッチ。66人が宮崎県の半導体工場へと旅立った。家電、電子部品から医療機器まで約100社5409人の精鋭たち。彼らはそれぞれの会社の命運を背負って全国へと散らばった。緊急で組み上がった生産ラインがフル稼働。見事な技術力でメードインジャパンの現場を復活させた。翌年1月、タイで復旧が始まっていた。各社は生産ラインを2階以上に移すなど新たな洪水対策に追われた。その中で山田はつらい立場に置かれていた。ラピスの社屋は平屋建てで洪水の際逃げる場所がない。今後の洪水対策は難しいと判断し親会社はタイ工場の閉鎖を決めた。山田は社員を集め、頭を下げた。沈黙が続いたが間もなく沸き起こったのは拍手だった。タニカは「一生懸命頑張ってる姿を見てました。怒る人なんて1人もいなかった。山田さんたちを悪く言う人もいなかった」などと話した。間もなく5409人の派遣団が任務を全うし一人も欠けることなく日本から帰国した。洪水から再建された工場に戻っていった。ニコンでは村石が次の洪水に備え生産拠点を分散させるなど万全の対策を施し工場を復旧させていた。
山田が送り出した66人も帰国。希望者全員の就職先を山田が見つけてくれていた。それが第2の家を預かる父親としての最後の仕事だった。会社が閉鎖を迎えた時、山田はぎっしりと文字で埋まった寄せ書きを渡された。中心には「ファイターの笑顔」と書かれていた。感謝の言葉を残して洪水との闘いが終わった。
山田隆基さんは「みんな心の中では泣いてる。でもみんなで集まった時はそれを出さない。一緒に闘ったんだと言うタイ人の優しさと強さを感じた」などと話した。村石信之は「苦しいときでも悲しいときでも笑って闘うっていう彼らの姿勢が今のタイの強さにつながっている」などと話した。
洪水との戦いのあと、山田さんは日本には帰らなかった。工場を無くした社員と同じようにタイで再就職する道を選んだ。年に1度、かつての従業員たちが毎年必ず誕生日を祝ってくれる。派遣リーダーを務めたシリヌッチさんは山田さんが紹介したアルミ缶メーカーの幹部として今も働いている。皆が働いた会社は別の工業団地で小規模ながら復活。その時、まっさきに戻ったのは1期生のコンサックさんだった。
エンディング映像。
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