- 出演者
- 有馬嘉男 森花子
2024年1月1日、能登半島を震度7の地震が襲った。道路は寸断、救援物資は届かず人々は寒さと空腹で震えていた。その時、動き始めた者たちがいる。地元の料理人とその仲間たち。自らも被災しながら述べ10万食に及ぶ炊き出しを作り続けてきた。これは突然日常が奪われた中で、即断で行動した人々の勇気と結束の物語。
オープニング映像。
有馬嘉男と森花子が石川・輪島市にやって来た。少しずつ片付けが進み更地が増えてきた。この1年日常を取り戻そうと、様々な方々が尽力してきたが地域の人たちの食事をどう確保するかが課題となっていた。そうした中立ち上がったのが地元の料理人たちを中心とする炊き出しチームだった。
輪島市にある重蔵神社は1300年前の創建以来、地域の守り神として地元の信仰を集めてきた。今年も元旦から初詣の人が集まっていた。しかし夕方4時過ぎ、能登半島地震が発生した。避難所となったのは地元の中学校。4℃の寒さの中、家族に1本お茶が配られただけだった。夜が明け能門亜由子は崩れた神社へ。奉納された米をとれるぶんだけとり、おにぎりをつくり配った。その頃、フレンチシェフの池端隼也は呆然と街を歩いていた。池端は全壊した店で仕入れた食材を見つけ、この食材で炊き出しをしようと考えた。1月3日、店の駐車場に使えそうな調理器具と食材を引っ張り出した。そのとき鮮魚店を営む中小路武士が通りかかった。一緒に炊き出しをしないか?と言われ、中小路は「やります」と答えた。池端がスープを作っていると、鴨肉を手に持った坂口竜吉が加わった。店舗が全壊した惣領泰久もオリーブオイルをもって駆けつけてきた。翌日も別の場所で炊き出し。スープを小分けにして配り続けた。4日たっても救援物資が届かなない。米もなくなりかけ能門亜由子は近くで料理人たちが炊き出しをしていることを聞いた。能門は池端を訪ね呼びかけた。池端たちは合流を即決。本格的な炊き出しプロジェクトが動き始めた。
輪島工房長屋で炊き出しが行われていた。炊き出しを始めた理由について池端隼也は「自然と炊き出しをしようとおもった。毎日10年間料理をつくっていたので、とにかくあったかいものを届けないとと思った」などと話した。能門さんから池端さんに炊き出しをしようと声をかけたという。
「炊き出しを手伝って下さい」というと料理人を中心に漁師から車の整備士まで15人ほどが駆けつけた。食事に困っている人の数を集計したのは橋本由紀。知り合いのツテを総動員して避難所ごとの人数を数え上げると、1500人だという事がわかった。援軍となったのはNPOや全国の有志たちだった。1500人分の食材と調理器具を必死で届けてくれた。池端隼也らは作るならカレーライスだと10台のカセットコンロを並べて調理した。川上俊二は100キロの米炊きを行った。2日目は雑炊を作った。たっぷり野菜と鶏肉 卵の親子丼や芽キャベツとしめじの中華餡 など土曜も日曜も休みなく作り続けた。能門亜由子は街の様子を見回っていた。顔知りの立野誠一朗が車で寝泊まりしているのを見つけた。立野は60年以上続くみそ店で両親とともに働いていた。呆然としていた立野を能門亜由子が炊き出しに誘った。立野は配達係を引き受けた。鮮魚店の中小路孝志は2週間、引きこもっていたが炊き出しに向かう息子を見て、沢からの水汲み係をかってでた。メンバーの心の支えになっていたのが最年長の料理人・河上美知男だった。河上は輪島の飲食店主を束ねる組合長で、穏やかな人柄を誰もが慕っていた。河上は炊き出しチームに混ざり、誰に言われるのでもなく全員分の包丁を黙って研いでいた。1月26日、皆に疲れが見えていた。橋本由紀は仕事終わりに部屋の明かりを消して河上の誕生日を祝った。それ以来、作業終わりに、他愛もないおしゃべりをするのが日課になった。1月が過ぎても炊き出しは続いた。2月は3万5680食、3月は3万8754食、そして4月、ようやく炊き出しの需要は1日700食に落ちついた。
この時はどのように生活していたんですか?と聞かれ池端隼也は「僕は車中泊だったけど途中から支援団体がキャンピングカーをくれた。炊き出しをしてて意外と元気になってた」などと話した。能門亜由子は「炊き出しの中にいると震災前と同じ。他愛もない会話ができるというのが安心だったり、癒やされた」などと話した。裏方仕事を組合長が率先してやったことについて河上美知男は「組合長という意識で炊き出しチームに入っていない。同じ気持ちで同じ立場で集まっているのでキャリアは関係ない。揉め事などは一切ない。お互いをリスペクト。」などと話した。
4月中旬、池端隼也は収入を無くしたもの同士、みんなで一緒に居酒屋を運営することはできないか?と考えていた。しかし被災地で経営が成り立つのか、みんなを巻き込んでいいのかとも思っていた。その時、やろうと励ましてくれたのは河上美知男だった。池端は貯金をはたき、地震で空いていた店舗を買い取った。新しい店で働くことを決めたのは14人。8月のオープンを目指した。みそ蔵が壊れた立野誠一朗も参加を決めた。一報を聞いた中小路親子は鮮魚店を再開させていた。自分たちが地元の魚を卸さなければ飲食店は営業できない。8月8日、居酒屋「芽吹」がオープンした。しかし9月21日、今度は豪雨が輪島を襲った。芽吹は無事だったが川沿いの飲食店は深刻な被害を受けた。被害が大きかったのは河上美知男の店だった。河上美知男は「芽吹」で働きながら営業再開に向けて8か月かけてコツコツ修繕してきた。春には店を開けるはずが建物を取り壊さざるを得ない。見舞いに訪れた池端隼也。しかし河上美知男は笑顔で「やる気でてきた。ここまでやられたらやり返さないと」などと話した。河上はボランティアの人々が支えになったという。その晩、炊き出しのメンバーが「芽吹」に集まり無礼講の飲み会が開かれた。それは彼らの二度目の決起集会だった。翌朝、メンバーたちは再び避難所への炊き出しを始めていた。炊き出しを離れていたメンバーも応援に駆けつけた。炊き出しは11月いっぱいまで続いた。
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- 令和6年能登半島地震芽吹輪島市(石川)
河上美知男は「最低最悪の災害でみんな苦しんでる中で、2度もやられたら逆に、絶対にもとに戻ってやろうって気持ちだった。全国からご支援頂いて、この1年で生涯一番ありがとうという言葉を使った」などと話した。池端隼也は「河上さんのやられたらやり返すよって言葉を聞いて、もう一回勇気が湧いてきた」などと話した。
立野誠一朗はみそ店を廃業し大工の見習いとして歩み始めた。立野は炊き出しで大事な仲間ができた。輪島にいる理由が強くなったという。
今後輪島に必要なものは?と聞かれ池端隼也は「たくさん人に来てほしい。美味しいものがたくさんある」などと話した。能門亜由子は「去年よりいい年にしたい」などと話した。
エンディング映像。
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