- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 倉島直樹 荒井裕国 植木穣
2020年1月22日、聖路加国際病院に1人の患者がやって来た。東京で初めての新型コロナウイルスの陽性者。パンデミックとの闘いは静かに始まった。
- キーワード
- SARSコロナウイルス2聖路加国際病院
オープニング映像。
有馬嘉男らの挨拶。国内の新型コロナウイルスの感染者数。2022年のピーク時は1日に26万人にもなった。今回注目するのは第1波、多い時で約660人、致死率は5.34%と異常に高い数値だった。
- キーワード
- SARSコロナウイルス2
東京初のコロナ患者に対応した聖路加には次々と受け入れの要請がやってきた。大谷典生はすぐさま対応した。1995年、地下鉄サリン事件が起きた時、聖路加の院長・日野原重明は通常の診療を止め、サリン中毒患者の治療にあてた。その魂が受け継がれていた。東京の感染者は急激な勢いで増えていった。東京には33の感染症指定医療機関があった。しかしこのままではパンクするのは目に見えていた。そんな中、立ち上がったのが東京医科歯科大学病院だった。医科歯科は感染症指定医療機関ではなく、専用の病棟も持っていなかった。それでもトップ・田中雄二郎は「新型コロナと闘おう」と檄を飛ばした。4月7日、緊急事態宣言が発令された。医科歯科では急遽コロナ病棟をビニールで整備することになった。受け入れ準備や雑務を一手に引き受けるコロナ対策室が設置された。リーダーは救急医の植木穣だった。植木は果てしない業務で帰宅はいつも深夜。長男は産まれたばかりだったがほとんど会えなかった。ある日、娘からなんでパパはいつもいないの?と言われた。
コロナ対策室はどんな仕事だったのか?という質問に植木穣は「コロナに関することはなんでもやる。可能な限り安全を守る方法を模索しながら進んでいった。なんのために自分はこれをやってるんだろうというふうに複雑な気持ちになることもかなりあった」などと話した。
- キーワード
- SARSコロナウイルス2聖路加国際病院
4月中旬、都内の病院は未知のウイルスにそれぞれの工夫で立ち向かっていた。聖路加国際病院の看護部長の鈴木千晴は患者とのコミュニケーションが少しでもうまくいくように、看護師たちは表情が分かる写真を貼り付けていた。東京医科歯科大学病院でも手探りで治療にあたっていた。そんな中、思い呼吸不全などに使われていた高度な機器「エクモ」を導入しようという声が上がった。エクモは血液を取り出し酸素を入れて体に送り返す肺の代わりになる装置。大きな効果がある最後の砦。しかし海外ではエクモを使った場合の救命率はわずか6割と言われていた。このリスクの高い治療を誰がやるのか。その時、立ち上がったのが荒井裕国だった。荒井は共にエクモを操作する相棒・倉島直樹を連れてきた。2人が出会ったのは北信総合病院だった。4月24日、植木の元にある患者の受け入れ要請が入った。関口毬奈さん30歳、意識不明で瀕死の状態だった。しかも前日、意識を失ったまま帝王切開で女の子を出産していた。植木は感染症の担当だけでなく産婦人科など各所に連絡。受け入れの承認を得た。間もなく、毬奈さんが運ばれてきた。意識不明になってから3日が経過していた。
エクモは当時、命を守る最後の砦と呼ばれていた。エクモの運用で1番気を使うこと、難しいことを聞かれ倉島直樹は「生命の維持をこの機械で行うので、もし止まったら命が途絶える。昼夜かまわずずっと監視していく」などと話した。意識不明で帝王切開後の患者が来た時について荒井裕国は「エクモにならなければいいなと思った。未知のウイルスの中での未知の治療。踏み込む以上は絶対に成功させる。それが医科歯科大学の使命」などと話した。
病院に運び込まれた毬奈さん。肺炎は日を追って悪化していった。エクモを使うしか回復する見込みはないが大きな見込みがあった。エクモは血栓を防ぐ薬を使う、だが手術直後の毬奈さんには高いリスクがあった。4月30日、毬奈さんにエクモをが導入され24時間体制でのチェックが始まった。しかし病院には次々とコロナ患者がやってくる。スタッフが足りずみな疲弊していた。それを救ったのが整形外科などの医師たちだった。毬奈さんがエクモを付けて48時間後、血栓ができていた。倉島は薬をさらに増量することにした。看護師たちは毬奈さんの枕元に、赤ちゃんの日々の写真を置き続けた。エクモを付けて8日後、毬奈さんは意識を取り戻しエクモを外す事ができた。5月25日、緊急事態宣言が全国で解除された。4日後、医療従事者に感謝を表すブルーインパルスが飛んだ。5月までの都内の陽性者は5231人。医療従事者たちは第一波を戦い抜いた。
- キーワード
- SARSコロナウイルス2非常事態宣言
関口毬奈の意識が戻った時について倉島直樹は「こういう治療に関わってて良かった」などと話した。患者に優先順位をつけて治療にあたらずを得なかったことについて荒井裕国は「どんどん電話がかかってきた。断らざるを得ないことがたくさんあった。そういう時に、今の助からない治療を続けてることが正しいのか自問自答することもある。最後の1%でも助かる可能性があれば何でもやる。それが僕らにとっての倫理観だし正義感だし、僕らを成り立たせていた根幹だった。でもそれを持ち続けることを許してもらえない環境になったときの辛さ。人の生と死の究極の所に立たされて、自分自身のありように大きく影響を与えた時間だったと思う」などと話した。
- キーワード
- SARSコロナウイルス2
第一波を乗り越えた医療従事者たち。その後さらに厳しい波に何度も直面し苦しい3年を過ごした。2024年、5類に以降しようやく落ちつきを取り戻している。第一波の最中に産まれた植木穣の長男は、今年4歳になった。出産直後に生死の境を彷徨った関口毬奈さん。その時の子ども、夏渚ちゃんも4歳になった。次女の凛夏ちゃん、信頼している病院がいいと、医科歯科で出産した。
エンディング映像。
新プロジェクトX〜挑戦者たち〜の番組宣伝。