東京初のコロナ患者に対応した聖路加には次々と受け入れの要請がやってきた。大谷典生はすぐさま対応した。1995年、地下鉄サリン事件が起きた時、聖路加の院長・日野原重明は通常の診療を止め、サリン中毒患者の治療にあてた。その魂が受け継がれていた。東京の感染者は急激な勢いで増えていった。東京には33の感染症指定医療機関があった。しかしこのままではパンクするのは目に見えていた。そんな中、立ち上がったのが東京医科歯科大学病院だった。医科歯科は感染症指定医療機関ではなく、専用の病棟も持っていなかった。それでもトップ・田中雄二郎は「新型コロナと闘おう」と檄を飛ばした。4月7日、緊急事態宣言が発令された。医科歯科では急遽コロナ病棟をビニールで整備することになった。受け入れ準備や雑務を一手に引き受けるコロナ対策室が設置された。リーダーは救急医の植木穣だった。植木は果てしない業務で帰宅はいつも深夜。長男は産まれたばかりだったがほとんど会えなかった。ある日、娘からなんでパパはいつもいないの?と言われた。