- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 小山文男 木村政俊
トルコ・イスタンブールは東半分がアジア、西半分がヨーロッパという極めて珍しい所。街を分かつのはボスポラス海峡。ボスポラス海峡は潮の流れが独特で行き交う船にとっては難所として知られている。この海峡に海底トンネルを作り鉄道を通したい。世界のゼネコンが尻込みする工事に挑んだのは、鋼鉄の男と呼ばれた物静かな日本人だった。
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- イスタンブール(トルコ)
オープニング映像。
有馬嘉男がボスポラス海峡を海底トンネルでわたってアジア側からヨーロッパ側にやって来た。この列車はトルコ・イスタンブールの大動脈となっている。海底トンネルの建設は、世紀の難工事だったという。
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- イスタンブール(トルコ)
2003年、トルコ・イスタンブールの町は排気ガスに飲み込まれていた。海峡を渡る橋は2本しかなく最悪の渋滞が排気ガスを垂れ流した。人口1200万の過密都市。この年7月、日本人の一行が熱心に海の様子を見つめていた。大成建設から海底トンネルの現地調査のために送り込まれた小山文男。事の発端は半年前。社長室に呼ばれトルコ政府から打診された海底トンネルについて「建設は可能か?」と尋ねられた。小山の困難という言葉は実現可能と受け止められた。小山は幼い頃学校で周りに追いつけないのが悩みだった。足りない分は自分で埋める。辛抱強い性格になった。その姿勢は技術者になっても変わらなかった。難工事を我慢強くやり抜き、鋼鉄の男と呼ばれるようになった。しかしボスポラス海峡は海外のゼネコンが尻込みするいわくつき。海底には軟弱層があり通常の掘削は行えない。地中深くを通そうにも地震の多いトルコでは危険すぎる。小山が指名されたのは海の中に直接トンネルをつくる特殊工法にかけるためだった。かつて小山が川崎航路トンネルで手がけた沈埋トンネル工法はまず海底の地盤改良を行い溝を掘る。そこに沈埋函と呼ばれる巨大な鉄製の箱を一つずつ沈めていく。それを水中で連結していきトンネルにする方法。ただし海が穏やかなことが条件で潮が激しい海峡では行われた例がない。ついに受注が決まった時小山の心中は複雑だった。小山は最も信頼する部下、土木本部・木村政俊に声をかけた。東京湾アクアライン工事でも活躍した木村は冷静沈着。難しい現場には俺を行かせろと自負する腕利きだった。小山たち総勢30人が順次トルコへ渡った。まず始まったのは採用面接。トルコで手をあげた多くは腕を磨きたいと願う若者たちだった。世紀の難工事に挑む即席の混成チームが結成された。
作るのはボスポラス海峡を挟んでアジア側とヨーロッパ側を繋ぐトンネル。全長は陸部分も含め13.6km。海底トンネルは約1.4km。沈埋トンネル工法と呼ばれる珍しい工法が採用された。別の場所で作ったトンネルのパーツを船で現場まで運び1つずつ海底に沈めて水中で連結していく。この工事は世界が注目した巨大プロジェクトだった。
海峡を結ぶ鉄道は地元、マルマラ海にちなんでマルマライと名付けられた。しかし工事はいきなりつまずいた。ローマ帝国時代から栄えるイスタンブールの地中からは、貴重な遺跡が出土する。その度に調査が行われ、工事が止まった。海底トンネル担当の小山たちは緊張していた。潮が予測不能なうえ、荒れ方が凄まじかった。この不気味さに直面することになったのはシミュレーションが専門の伊藤一教と織田幸伸だった。2人に課されたのは潮流を正確に予測するプログラムを作ることだった。しかし実際の海峡は謎に満ちていた。一方、沈埋函の製造現場では100年耐えられるようにと性能を追求する日本に対し、そんな長時間は働けないと不満が上がりトルコ人技術者は次々にやめていった。お茶休憩の長さまで諍いの種になった。まとめ役のトルガ・プラックは仲間を引き止めていたがトラブル工事に、本当にできるのかと疑うようになっていた。着工から1年、工事は計画から半年遅れていた。工事が遅れれば総工費が跳ね上がっていく。発注元のトルコ政府からも「この工事はあと100年くらいですか」と遅れを遅れを指摘された。人一倍責任を感じていたのは現場リーダーの木村だった。地盤改良は硬い岩盤に阻まれ予定の100分の1しか進まなかった。ある日、木村を交代させろという本社のウワサを聞いた。小山は木村に知らせず交代の話を断っていた。
ボスポラス海峡について小山文男は「この工事をやるかどうかの時に、マジかと思いましたけど、トルコ150年の強い夢だと聞いてたし、それを成し遂げるのは私達の使命だろうと思った」などと話した。カルチャーショックについて木村政俊は「どんなに忙しい工程を組んでててもお茶の時間は必ずある。仕方がないと思った」などと話した。
2005年10月、潮流予測担当の伊藤と織田が重大なヒントを掴んだ。黒海でき圧が下がると付近の界面が僅かに上昇。その勾配が潮の流れを生み時間差でボスポラス海峡に影響するのでは?そう考えうと潮が流れる謎の現象も説明できる。小山は国籍が入り交じる現場を「我々の目標はマルマライの完成ただ1つ。日本人もトルコ人もない。建設に力を注ぐ人は皆、マルマライ人です」という言葉で励ましていた。トルガはここで働けば自分自身のためになる、そう声を掛け現場からの悩みや声を小山に相談するようになった。2007年3月23日、地盤改良が完了。最初の沈埋函を下ろす準備が整った。伊藤は夕方潮が収まる、明日がチャンスだと断言した。夕方6時、作業確認完了。翌朝、海は静まり帰り沈埋函を降ろした。しかし傾斜計ケーブルが切れ函の正確な位置がわからなくなった。ずれを図り函を正しく置き直すには誰かが海面から立坑を下り沈埋函に潜りジャッキを操作するしかない。もし異常があれば海水が流れ込み命に関わる。そこで私が行きますと手を上げたのは木村政俊だった。木村は週に1度、横浜に残る家族とテレビ電話をつなぎ話をするのが決まりだった。作業のことは一切言わなかった。4月19日、木村は海底へ潜っていった。翌日の夕方、修正が完了した。以後、1函目を起点にトンネルは順調に延びた。海底トンネルが本当にできるらしいと街中に広まり、日本の工事関係者は街で声を掛けられるようになった。2008年9月23日、最後の11函目が降りた。その瞬間も小山は表情を変えなかった。連結を確認、完璧な仕上がりだった。2013年10月29日、マルマライは計画から4年半遅れて開通した。駅に作られた記念プレートには日本とトルコの国旗が刻まれた。
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- ボスポラス海峡横断地下鉄横浜市(神奈川)
マルマライ人について小山文男は「思いが一緒じゃないとこのプロジェクトは完成しないと思った。どういう言葉で気持を盛り上げるというか、1つのワンチームにするかって常に考えてた。それでそういう言葉が出た」などと話した。木村政俊は「なかなかうまいこというなって思った」などと話した。2人は完成前に帰国したためマルマライには乗っていないという。
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苦難の工事で誕生したボスポラス海峡海底トンネル。1日65万人が鉄道を利用する。開通から10年がたった今も工事関係者への感謝は市民に刻まれている。木村政俊さんは週1回のテレビ電話が心の支えだった。妻の惠子さんはいつか家族でマルマライに乗る日を楽しみにしている。10月、着工から20年を祝して苦楽を供にしたチームが懐かしのトルコ料理を囲んだ。
エンディング映像。
新プロジェクトXの番組宣伝。