- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 阿南英明 近藤久禎 鈴木教久
4年前、乗員乗客3711人が乗った「ダイヤモンド・プリンセス」で新型コロナウイルスが蔓延した。712人が感染する世界的大規模クラスターとなった。あのクルーズ船で何が置きていたのか。これは知られざる葛藤の記録。
オープニング映像。
ダイヤモンド・プリンセスには厚生労働省や自衛隊など数多くの組織は駆けつけた。今回は陽性者の搬送や診察などで活躍したDMATにスポットを当てた。その戦いは1本の電話から始まった。
2020年、令和で最初の正月。その直後、中国・武漢で新型コロナウイルスが確認された。横浜港沖にダイヤモンドプリンセスがやって来たのはその1か月後のことだった。船内では発熱者が急増、PCR検査の結果31人中実に10人が陽性と判明。政府は即座に乗員乗客の14日間の船内待機、事実上の「隔離」を要求。陽性者は病院へと搬送することになった。ニュースの直後、医師・阿南英明の電話が鳴った。神奈川県庁からだった。県庁の職員から「クルーズ船の対応にDMATを出動させられないか」と要請。DMATとは地震や大事故が起きると即座に医師や看護師などを派遣する災害医療のスペシャリスト集団。大勢の負傷者の治療だけでなく入院患者の避難や病院への燃料補給などあらゆる支援を行う。今回のような感染症は災害ではないためDMATは通常出動しない。しかし阿南は「これは災害、DMATを派遣すべきだ」。こうしてDMATは陽性者を病院に搬送するため出動することが決まった。
2月7日、DMATの第1陣が横浜港に集結。いの一番に出動した一人、中森知毅医師は災害現場でも常に冷静、阿南が全幅の信頼を寄せる救急医。中森は臨時検疫官として船に乗り込んだ。船内は混乱していた。陽性者は3日で60人を超え、急きょ作ったコールセンターには医師を求める電話がひっきりなしにかかっていた。さらに問題はウイルス以外にもあった。乗員乗客の国籍は57か国。厚労省や検疫が懸命に対応したが言葉が通じず、なかなか作業が進まない。さらに中森が危機感を抱いたのは新型コロナ以外の理由で体調不良者が出始めていたことだった。実は乗客の半数が70代以上の高齢者。ガンや心不全、糖尿病など命に関わる持病を持つ人も多くその薬もすでに不足していた。この危機的状況を打開するにはさらなる隊員が必要と中森は近藤久禎医師と連絡を取った。阿南と共にDMAT創設から関わってきた。近藤は中森の報告を聞いて奮い立った。2月10日、出動要請に応えた全国151人もの隊員が横浜港にやって来た。彼らを率いる近藤が目指すのはただ一つ「船の中で誰も死なせてはいけない」。必要な人が必要な医療を受けられるよう絶対に病院に送り届ける。隔離終了まで10日、近藤たちの長い闘いが始まった。
現場に入ってく躊躇は?と聞かれ阿南英明は「恐いですよ。でもこれは背負わないといけない。そうでなければ皆さんにお願いできない」などと話した。阿南英明は本部。近藤久禎は現場に行っている。
2月10日、近藤と隊員たちが船に乗り込んだ。船内の診察に付き添っていたDMAT事務局福島復興支援室・小塚浩看護師は、乗客は強いストレスにさらされていると感じていた。実はあした、たまった下水を放出するため船は港を離れ5キロ以上沖合に出なければならなかった。その間、丸1日間は乗客の容体が急変してもすぐには病院へ運べない。しかも薬もまだ行き届いていなかった。この時、近藤の脳裏にはある悲劇が浮かんでいた。2011年東日本大震災、福島第一原発で事故が発生。周辺の住人が避難する中、原発から4.5キロの双葉病院で約230人の入院患者などが取り残された。適切な医療が受けられず50人が亡くなった。DMATは制度上、避難指示区域への出動が認められなかった。近藤は亡くなった人々の無念をずっと思い続けてきた。災害では全員の命を救うことは難しい。しかしできるかぎりの手を尽くし被災者の無念を減らすことが自分たちの使命。近藤は厚労省や自衛隊など他の救援チーム「今は陽性者でなくとも命に危険が迫る人を優先すべき」と主張。近藤の提案を受け船内はPCR検査の作業を一旦停止。自衛隊やDMATなど全ての医師が乗客たちの容体を見極めるため診察に回った。近藤の方針を聞いた阿南と中森はすぐに動きだし大量の入院先を確保。薬剤師たちは日本赤十字社などと協力し薬を急ピッチで用意した。
2月11日(隔離7日目)。離岸まで12時間を切った。前日21人を下船させたが、まだ80人以上対象者が残っていた。近藤が下船作業の要を任せた隊員が鈴木教久。鈴木は医師でも看護師でもない業務調整員という職種。防護服の準備から被害の情報収集まで医療行為以外の全ての業務を担う。もともと鈴木は菅原文太に憧れるトラック運転手だった。転機は24歳の時、生まれた娘に心臓病やダウン症の障害があった。鈴木は娘のそばを離れまいと遠出が必要なトラック運転手をやめた。そして選んだのが病院の事務職だった。それから5年、懸命な治療の末娘の心臓病が安定した頃、鈴木はDMATに参加。以来15年恩返しの思いで被災者のために働いてきた。今やDMATの中心メンバーとなった鈴木。離岸に間に合うよう下船作業に奔走。乗客の病状が急変すれば即座に下船の順番を変え、正確に搬送先の病院へ送り届けるよう神経をとがらせた。午後6時半、救援チームや船の乗組員が力を合わせ104人の下船が完了。2月12日(隔離8日目)。しかし安堵する時間は長くは続かなかった。船内の救援チームで感染が判明、船の感染対策に疑いの目が向けられた。隊員を派遣する病院は激減、陽性者が増え続ける中、交代要員は来なくなった。
業務調整員のやりがいについて鈴木教久は「これまで子どものことがあったので医療に関してとても感謝をしている。家族を救ってもらったし。全て医療に繋がっているんだって考えながら仕事をすることが大事だと思っている」などと話した。
2月12日、隔離8日目、船内の陽性者は39人と増え続けていた。新規派遣が激減したDMAT。近藤や鈴木など一部の人間が連続して対応にあたっていた。そして船をおり職場に戻った隊員たちに待っていたのは誹謗中傷だった。様子がおかしい乗客をいると言われ鈴木が見に行くと、外国人の女性が廊下で泣き崩れていた。夫が2日前に陽性となり下船。搬送先で危篤になったという。夫のもとに行くため船から行きたいと懇願していた。しかし陽性者や体調不良者でないと下船できないのが原則。鈴木は厚労相などと交渉し女性を下船させた。しかし直後、別の救援チームから何を勝手なことをやってるんだと異議が唱えられた。そのとき、経緯を聞いた近藤は「鈴木の行動が認められないならDMATは撤収します」と言った。近藤は「被災者に足しての優しさがなければ、災害医療従事者じゃない」などと話した。2月15日、隔離11日目、陽性者が減らず病床がそこを付きかけていた。阿南は連日全国の病院に受け入れをお願いし続けていた。その時、自衛隊中央病院が100人以上の患者を受け入れることになった。さらに藤田医科大学岡崎医療センターも続いた。2月19日、隔離期間が終了。乗客や医療チームが下船。船の中で亡くなった人は1人もいなかった。ダイヤモンド・プリンセスで新型コロナ陽性となったのは712人。病院で治療が行われたが14人が亡くなった。
どんな思いで船から降りましたか?と聞かれ近藤久禎は「1つのことは終わったという思いはあった」などと話した。DMATとは?と聞かれ阿南英明は「悲劇に見舞われている人を何とかするんだ。助けてという人がいて、知らんぷりはできないよねという非常に根源的なところ」などと話した。
長く人々を苦しめたコロナ禍。DMATは北海道から沖縄まで全国のクラスターに対応した。2024年、地震の大雨に襲われた能登半島。DMATはどちらの災害にも発生直後から出動した。近藤久禎も能登に通い続けている。DMAT摂理から20年。出動しなかった年はこれまで一度もない。
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