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「藤村官房長官」 のテレビ露出情報

工場水没から2週間。ジェトロの助川は山田たちを呼び「派遣したタイ人が日本で行方をくらます恐れについてどうお考えか」と訪ねた。山田は「我々は皆家族。そんなことは絶対に起きない」と返した。助川は再び政府との交渉に入った。粘り強い交渉が続いた10月末、ラピスで派遣団のリーダーとなったのはシリヌッチ。66人が宮崎県の半導体工場へと旅立った。家電、電子部品から医療機器まで約100社5409人の精鋭たち。彼らはそれぞれの会社の命運を背負って全国へと散らばった。緊急で組み上がった生産ラインがフル稼働。見事な技術力でメードインジャパンの現場を復活させた。翌年1月、タイで復旧が始まっていた。各社は生産ラインを2階以上に移すなど新たな洪水対策に追われた。その中で山田はつらい立場に置かれていた。ラピスの社屋は平屋建てで洪水の際逃げる場所がない。今後の洪水対策は難しいと判断し親会社はタイ工場の閉鎖を決めた。山田は社員を集め、頭を下げた。沈黙が続いたが間もなく沸き起こったのは拍手だった。タニカは「一生懸命頑張ってる姿を見てました。怒る人なんて1人もいなかった。山田さんたちを悪く言う人もいなかった」などと話した。間もなく5409人の派遣団が任務を全うし一人も欠けることなく日本から帰国した。洪水から再建された工場に戻っていった。ニコンでは村石が次の洪水に備え生産拠点を分散させるなど万全の対策を施し工場を復旧させていた。
山田が送り出した66人も帰国。希望者全員の就職先を山田が見つけてくれていた。それが第2の家を預かる父親としての最後の仕事だった。会社が閉鎖を迎えた時、山田はぎっしりと文字で埋まった寄せ書きを渡された。中心には「ファイターの笑顔」と書かれていた。感謝の言葉を残して洪水との闘いが終わった。

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