TVでた蔵トップ>> キーワード

「デイヴィス・ディバン」 のテレビ露出情報

徳島県板野町の徳島工業短期大学へ訪問。依頼人はこの学校で特別講師をしている元木さん。自動車工業学科の生徒たちと一緒にT型フォードの修理を行っている。この車が学校に寄贈され、試しに始めたところ以外にも生徒に大好評。元木さんは現役の自動車整備士。10年くらい前から旧車の魅力にハマり、壊れた車を買ってきては修理して走れるようにしてきた。現在30台以上をコレクション。今回のお宝は、日本に3台しかない貴重な車。元々知り合いのコレクターが所有していたものだったが、5年前にもう高齢だから買ってほしいと打診されたという。金額が高かったが二度とないチャンスと思い切って購入。依頼品は、三輪自動車ダイハツ・ビー。買った時は動かず修理したという。MCらが乗車体験。三輪自動車はかつては日本中を当たり前のように走っていた。日本に初めて三輪自動車が登場したのは大正時代。前2輪・後ろ1輪の自転車にアメリカ製小型エンジンを取り付けたものでフロントカーと呼ばれた。しかし安定性に欠けたため、すぐに後ろ2輪タイプが途上。やがて国産エンジンが開発されると全国に普及していった。戦後、いち早く復興に向け活躍したのは、未舗装の狭い路地や小回りが利く山林トラックだった。GHQが乗用車の製造を制限したことや、四輪車よりもコストがかからなかったことから数多くのメーカーが山林トラックを発売。その代表的なメーカーがダイハツ工業。1957年に登場したミゼットは、宣伝に大村崑を起用したことも話題を呼び空前の大ヒット。また消防車やバキュームカー、ゴミ収集車にダンプカーなどの特殊車両にも技術を応用し様々な三輪自動車を手掛けた。ミゼット販売の6年前に三輪の乗用車も販売。GHQが乗用車の生産制限を解除したことを受け、1951年に発売したビー。トラックとは一線を画した乗り心地の良さを追及。名前は公募でミツバチを意味するビーに決まり、ダイハツは社を上げて売り出した。しかし思うように販売台数が伸びず、1年ほどで販売中止に。生産台数はわずか300台。1960年代に入ると、自動車産業は四輪の時代に突入し、三輪自動車は次第に町から姿を消していった。

© 2009-2025 WireAction, Inc. All Rights Reserved.